赤道ギニア
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合計(2020年)251億6800万[2]ドル(128位
1人あたり1万7897.005(推計)[2]ドル

独立
 - 日付スペインより
1968年10月12日
通貨CFAフランXAF
時間帯UTC(+1) (DST:なし)
ISO 3166-1GQ / GNQ
ccTLD.gq
国際電話番号240

赤道ギニア共和国(せきどうギニアきょうわこく、Republica de Guinea Ecuatorial)、通称赤道ギニアは、中部アフリカ共和制国家ギニア湾に浮かぶビオコ島アンノボン島、および大陸部のリオ・ムニ(ンドウェ語(フランス語版): ンビニ)とエロベイ・グランデ島、およびエロベイ・チコ島を併せたエロベイ諸島を領土とする。首都はマラボ

国名が似ているため混同しやすいが、赤道ギニア共和国とギニア共和国は全く別の国である。
概要

リオ・ムニは北はカメルーン、南と東はガボンと接する。首都のマラボはビオコ島に位置している。

大陸部分に海外領土ではない領土を持ち、首都が島に存在する国は赤道ギニアとデンマークのみである(海外領土も含める場合は他にジブラルタルを領有するイギリスがある)。なお、ポルトガル語公用語アフリカ諸国及びフランコフォニー国際機関に加盟している国家の一つともなっている。

気候は高温多湿の熱帯性気候である。

1992年の原油生産開始以降、急速に経済成長が進み、2017年には後発発展途上国の指定を解除されたものの[3]、貧富の差やガバナンスに多大な問題があることが指摘されている。

独立時から1979年までフランシスコ・マシアス・ンゲマによる一党制が敷かれ、反知性主義腐敗の深刻さ、経済崩壊(マシアスは中央銀行から資金を「調達、または稼いでいた」とされている)で「アフリカダッハウ」という異名を持った程の恐怖政治を敷いた。このような国民を無視した放漫的政策は、甥のテオドロ・オビアン・ンゲマまでを激怒させ、1979年にマシアスは失脚、現在までオビアンが大統領に居続けている。近年、副大統領を務めるテオドロ・ンゲマ・オビアン=マンゲの政治的台頭が著しい。
国名

正式名称はスペイン語で
Republica de Guinea Ecuatorial
(レプブリカ・デ・ギネア・エクアトリアル)

フランス語で
Republique de Guinee Equatoriale
(レピュブリク・ドゥ・ギネ・エクアトリヤル)

ポルトガル語で
Republica da Guine Equatorial
(レプブリカ・ダ・ギネー・エクアトリアル)

公式の英語表記は、
Republic of Equatorial Guinea
(リパブリック・オヴ・エクワトーリアル・ギニー)

日本語表記は、正式名称赤道ギニア共和国、通称赤道ギニア。赤道上に領土を持たないが、南半球にあるアンノボン島と他の領土の間の海上に赤道が通っている。西アフリカのギニアと区別し、かつ首都マラボがあるビオコ島がギニア湾に浮かぶことから赤道に近いギニアとして名づけられた。
歴史1729年のギニア湾周辺の地図詳細は「赤道ギニアの歴史(スペイン語版、英語版)」を参照
独立前

ヨーロッパ人の到達以前に、すでにビオコ島には先住民としてブビ族が居住していた。リオムニにはバントゥー系民族が居住していたものの、このころまだ現在の主要民族であるファン人はこの地に到達していなかった[4]

1472年にポルトガル人のフェルナン・ド・ポーがビオコ島を発見し、この一帯はポルトガル領とされ、島は発見者の名を取ってフェルナン・ド・ポー島と名付けられた。17世紀後半にはファン人のリオムニへの進入が始まり、これは20世紀初頭まで続いた[5]1778年にポルトガルはブラジルの領有権を認めてもらうことと引き替えに大陸部のリオムニとフェルナン・ド・ポー島をスペインに割譲し[6]スペイン領ギニアが成立した。スペインの統治下では特にフェルナン・ド・ポー島でカカオのプランテーション開発が進められたものの[7]、その統治は島部や海岸部に限られ、リオムニ内陸部に実質的な支配が及んだのは1920年代後半のことだった[6]。1926年にスペイン領ギニアはリオムニ、フェルナン・ド・ポー島、アンノボン島、大エロベイ島、小エロベイ島、コリスコ島および周辺の島々により形成された。さらに1956年にギニア湾県としてスペイン領ギニアの領土となった。1959年にギニア湾県は消滅し、スペイン領ギニアのフェルナンド・ポー島とリオムニはフェルナンド・ポー県とリオムニ県の2つのスペインの海外県にさらに分割され、住民は本国と同等の市民権を得ていた。1960年9月1日にフェルナンド・ポー県とリオムニ県の議会が発足した。1963年には自治政府を樹立した[8]。1964年にはスペイン領ギニアのフェルナンド・ポー県とリオムニ県は別々の地位を維持しながら、ある程度の内部自治を備えた自治組織となった。自治政府の主席には赤道ギニア民族同盟運動のボニファシオ・オンド・エドゥが就任し、1966年には2年後の独立が約束された。1968年9月の独立準備選挙においては野党・赤道ギニア解放民族運動のフランシスコ・マシアス・ンゲマが勝利し、新政府の首班となることになった[9]
独立後

1968年10月12日、スペイン領ギニアのフェルナンド・ポー県とリオムニ県は統合したまま赤道ギニア共和国として独立し、首都はリオムニにあるバタとなった。そしてフランシスコ・マシアス・ンゲマ(以下マシアス)が初代大統領に就任した。1969年に首都がリオムニにあるバタからフェルナンド・ポー島のサンタ・イサベルに移った。マシアス・ンゲマは独立後すぐに恐怖政治を敷き、1970年に自身の与党労働者国民統一党以外の政党活動を禁止し、1972年には終身大統領を宣言、独裁体制を固めた[8]。マシアスは国内では反対派への弾圧や殺害を行い、また国民の外国との接触を極度に制限する一種の鎖国政策を敷いて、すべての諸外国から孤立した。国民のおよそ3分の1にあたる10万人が難民として国外に脱出し[10]、さらに、1975年にはカカオ農園でのナイジェリア人労働者の虐殺事件が発生し、これに抗議したナイジェリア政府が労働者の引き上げを決定したため、経済も困窮した[10]。1973年から1979年にマシアス・ンゲマ政権が進める改名運動に基づき、フェルナンド・ポー島からビオコ島と改名され、1973年に首都名もサンタ・イサベルからマラボに改名された。

1979年8月、フランシスコの甥のテオドロ・オビアン・ンゲマ(以下ンゲマ)がクーデターを起こし、マシアスを処刑して大統領に就任、軍事政権を敷いた。1982年に民政移管などを定めた新憲法を採択したが、クーデター未遂が頻発した。1987年、ンゲマの一党独裁の政権党として赤道ギニア民主党(以下PDGE)が結成され、1989年ンゲマは3選された[6]

民主化を要求するスペインフランスアメリカ合衆国の圧力を受け、1991年11月に複数政党制を認めた新憲法が国民投票で承認されたが、大統領の免責規定などに野党勢力は反発し1993年の総選挙は野党の大半がボイコットする中、PDGEが大勝した[11]。1996年2月の大統領選も野党はボイコットし、ンゲマが得票率99%で4選された。1997年6月、政府は最大野党赤道ギニア進歩党党首のセベロ・モト・ンサ(英語版)に武器密輸容疑をかけ、進歩党の政治活動を禁止したため、モト・ンサはスペインに亡命し、裁判所は8月、国家反逆罪で彼に懲役101年の判決を下した。

1999年3月の総選挙でPDGEが80議席中75議席を獲得。残り4議席を人民同盟、1議席を社会民主連合が獲得。11月に赤道ギニア進歩党 (PPGE) など6つの反政府野党が民主化促進を掲げ、野党連合である民主野党戦線を結成。


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