赤穂浪士
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神文提出の段階でまず下級武士がいなくなり[7]、そこから46人に絞られる段階で比較的高禄のものが離脱した[7]

最初に下級武士がいなくなったのは、町人になるなど生計を立てる道があったからであろうし[7]、その後で高禄のものが離脱したのは浅野大学の処分が決まりお家再興の道が閉ざされたためだろう[7]

離脱者は時に討ち入り参加者から義絶されたり不通にされたりするが、それは討ち入り参加者が離脱者の援助を受けられなくなるという事でもあった[8][注釈 2]
四十七士

氏名事柄(役職、禄高、役割、享年、辞世など)
大石内蔵助良雄
おおいしくらのすけよしお(よしたか)国家老、1500石(譜代)。討ち入りの指導者。享年45。辞世は「あら楽や思ひは晴るゝ身は捨つる浮世の月にかゝる雲なし」とされる場合が多いが、熊本藩の堀内が預かった真筆は「武士の 矢並つくろふ 小手のうへに あられたはしる 那須のしの原」。
大石主税良金
おおいしちからよしかね部屋住み。大石良雄の長男。大石内蔵助の嫡男で四十七士では最年少で、内匠頭の刃傷の際は元服前で幼名の松之丞を名乗っていた[9]。討ち入りの際には裏門隊の大将を務めた[9] 。享年16[9]

辞世は「あふ時はかたりつくすとおもへども別れとなればのこる言の葉」。
原惣右衛門元辰
はらそうえもんもととき足軽頭、300石(新参)。早くから江戸の急進派に同調していた。享年56。辞世は「君がため思もつもる白雪を散らすは今朝の嶺の松風」。
片岡源五右衛門高房
かたおかげんごえもんたかふさ側用人・児小姓頭、350石(譜代)。浅野長矩の遺体を引き取る。芝居の忠臣蔵では主君切腹の前に最後の対面をした。仇討ちを強硬に主張し独自の行動をとっていた。享年37。
堀部弥兵衛金丸
ほりべやへえかなまる(あきざね)前江戸留守居、前300石、隠居料20石(譜代)。高田馬場の決闘で名を馳せた安兵衛を強いて求めて養子にした[10]。四十七士最高齢で享年77[10]。辞世は「雪はれて思ひを遂るあしたかな」。
堀部安兵衛武庸
ほりべやすべえたけつね馬廻、200石。越後国新発田藩出身、旧姓中山。25才の時[11]に甥・叔父の義理を結んだ菅野六郎左衛門の危機に助太刀した高田馬場の決闘で名を馳せ、堀部金丸の婿養子となる。赤穂浅野家の家臣となる。仇討ち急進派の中心人物。享年34[11]。辞世は「梓弓ためしにも引け武士の道は迷はぬ跡と思はば」。
吉田忠左衛門兼亮
よしだちゅうざえもんかねすけ大石内蔵助に次いで事実上の副頭領[12]。足軽頭・郡奉行、200石役料50石(譜代)。享年64。辞世は「かねてより君と母とにしらせんと人よりいそぐ死出の山道」。寺坂信行の主。
吉田沢右衛門兼貞
よしださわえもんかねさだ部屋住み。蔵奉行吉田兼亮の長男。享年29。
近松勘六行重
ちかまつかんろくゆきしげ馬廻、250石(譜代)。討ち入りの際に負傷する。享年34。
間瀬久太夫正明
ませきゅうだゆうまさあき大目付、200石役料50石(二代)。享年63。
間瀬孫九郎正辰
ませまごくろうまさとき部屋住み。間瀬正明の長男。享年23。
赤埴源蔵重賢
あかばねげんぞうしげかた馬廻、200石(譜代)。忠臣蔵では「徳利の別れ」で有名。享年35。
潮田又之丞高教
うしおだまたのじょうたかのり郡奉行、絵図奉行、200石(譜代)。享年35。吉良義央を討ち取るとその首級を槍先に括りつけ引き揚げた。辞世は「武士の道とばかりを一筋に思ひ立ぬる死出の旅路を」。
富森助右衛門正因
とみのもりすけえもんまさより馬廻・使番、200石(二代)。享年34。屋内戦に有利な9尺の短槍を使用した。辞世は「先立し人もありけりけふの日をつひの旅路の思ひ出にして」。
不破数右衛門正種
ふわかずえもんまさたね元馬廻・浜奉行、元100石(譜代)。元禄10年頃[13]浅野内匠頭の勘気を受けて浪人していたが、浅野内匠頭の刃傷後、大石内蔵助に許されて帰参し、討ち入りに参加[13]。吉良邸討ち入りでは裏門を屋外で固める役であったが、じっとしてられず中に侵入し、二人を斬り倒し、吉良左兵衛に斬りかかった。左兵衛は逃げてしまったものの、別の一人と斬りあいをして倒す[14]


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