赤穂事件
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

^ 将軍は切腹を以下のように命じた「其方儀、意趣これある由にて、吉良上野介を理不尽に切つけ、殿中をも憚らず、時節柄と申し、重畳不届至極に候。これにより切腹仰せつけらる」(そのほうは、恨みがあるということで、吉良上野介を理不尽に斬りつけた。殿中をもはばからず、また勅使登城の日でもあり、重ね重ね不届至極である。これにより切腹を命じれらる。)[26]
^ 従一位は女性としては最高位[30]
^ 切腹の際の立会人は検使正使の大目付庄田安利(下総守)と、 検使副使の目付多門伝八郎大久保権左衛門であり[38]、介錯は御徒目付磯田武太夫によってなされた[38]
^ 片岡源五右衛門礒貝十郎左衛門田中貞四郎、中村清右衛門、糟屋勘右衛門、建部喜内[43]
^ なお、第一の早駕籠に乗って赤穂に訪れたのは 早水藤左衛門萱野三平の二人で [47] 、第二の早駕籠に乗っていたのは原惣右衛門大石瀬左衛門の二人であった[47]。時刻に関しては第一の早駕籠は3月14日未の下刻(午後3時半頃)に江戸を出発し、 第二の早駕籠は同日夜更け[47]に出発した。前者は19日寅の下刻(午前5時半頃)[47]に赤穂に到着、後者も同日中[47]には赤穂に到着した。
^ 五匁札・一匁札・三分札・二分札の銀札があり、額面上部に大黒天と銀分銅の絵柄が確認できる。
^ 実際、赤穂改易後に広島藩は鴻池家からの借財が桁違いに増加している[53][要非一次資料]。
^ このとき大石は次席家老の大野九郎兵衛と相談し、広島の浅野本家に不足分の金の借用を頼むことにしたが、広島藩は藩主が不在であることを理由にしてこれを断っており[49][50][51]、この件に限らず広島藩は、自藩に累が及ぶのを恐れ、赤穂藩に一貫して冷ややかな態度をとり続けたとしている[50]
一方、高木(2019)[52][要ページ番号]は延宝8年の赤穂藩藩札が広島藩(現在は広島市)に残っている[注釈 13]事を根拠に浅野本家からの援助があったとするがある[注釈 14]
^ 受城目付の荒木政羽と榊原政殊[57]
^ 山本(2012a) 第二章二節では『江赤見聞記』『堀部武庸筆記』を参考に「抗議の意思を表すために、籠城すべきであるという意見が強かった」としているので本稿ではそれに従ったが、野口(2015)第四章1節の「藩論四分五裂」では「なぜだか籠城=徹底抗戦派は誰もいなかった」としている。
^ ここでは山本(2012a)第二章二節にしたがって筆頭家老は大石、次席家老は大野とした。一方「大石蔵之介は首席家老ではあったが城代家老ではなく、城代家老は大野九郎兵衛だったという説もある」[63]
^ こうした経緯があったため、翌日の4月13日に大野九郎兵衛・郡右衛門親子は赤穂から逃亡[66]
^ 親戚の進藤源四郎が代々ここに田畑を持っており、これを頼って居を定めたのである[70]。ここで大石は幕府に対してお家再興の嘆願を、赤穂の遠林寺の僧祐海を通じて出している[71]
それ以外の藩士達は赤穂に近い大阪、伏見、京都などに散らばっている[72]。幕府の許可を得て赤穂に留まった者も多かったが、その場合は百姓や町人の格で居住する必要があった[72]
江戸詰めの藩士達はそのまま江戸に留まる者が多かったが、もう藩邸には住めないので借宅して暮らす必要があった[72]
^ もちろん上方も一枚板ではなく、上方にも武林唯七不破数右衛門のような「血気盛んで直情径行型の人物」[76]もいた。
^ 吉良家と関係が深かった京都の西本願寺は刃傷事件や討ち入り後、築地本願寺と書状を交わして吉良の傷の様子や浅野の心情など状況を把握しようとしていた[84][85][86]。『江戸江遣書状留帳(えどへつかわすしょじょうのとどめちょう)』には元禄14年(1701年)年1月20日から同15年12月24日の約2年間にわたり、刃傷事件後の吉良の様子や討ち入りへの反応などが記されている。刃傷後は「内匠の乱心」「吉良殿、痛みも軽く、食事も相変わらず」などの記録があり、討ち入り後は「言語に絶える」と落胆している[87][要非一次資料]。
^ 連れて行ったのは奥野将監、河村伝右衛門、岡本次郎左衛門、中村清右衛門で、いずれも討ち入りに参加していない[92]
^ すなわち、後述する山科会議を行う事がこの段階で約束された[94]
^ なお、山科会議に先立つ2月10日には、赤穂浪士の原惣右衛門と吉田忠左衛門が会談しており、山科会議はその会談の内容の再確認としての色彩が強く[99]、ドラマ等で見られるような激論が交わされたとするのは史実ではない。また山科会議は秘密会議であり議事録が残される性質のものではないため[100]、上述した以上の詳細は伝わらないが[100]、2月15日に会議が行われた事自身は記録にもあり、史実である[100]
^ 大石は討ち入り後のお預け先であった堀内家の堀内伝右衛門に次のように語ったという:「今度のことについて、御傍輩中(ごぼうはいちゅう)でもご批判されていると察しています。ここにいる者どもは、おおかた小身(しょうしん)(禄高が少ないこと)な者で、大身の者も少しは加わっていると思し召されている事が恥ずかしいのです。いかにも大身の者も加わっていますが、多くは了見を変え、私の力が及びませんでした」(『堀内伝右衛門覚書』)[116]。そして「番頭の奥野将監、物頭の佐々木小左衛門、進藤源四郎小山源五左衛門、河村伝兵衛らの名前をあげて批判している」[116]
^ 現在の神奈川県川崎市幸区下平間のあたり[119]。四十七士の冨森助右衛門の小屋掛け(=粗末な家)[119]。不便なので冨森はこの家を空き家にして江戸に出ていたが、家を修理して大石を迎えた[119]。この家は富森助右衛門と親しかった軽部五兵衛の敷地内に建てたもので[121][出典無効]、軽部五兵衛の屋敷の傍にあった稱名寺には赤穂浪士のゆかりの品が残されており[122]、同じく平間にある了源寺には軽部五兵衛の墓がある[123]
次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:359 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef