凡例赤松 政則
赤松政則像(六道珍皇寺蔵)
時代室町時代後期(戦国時代)
生誕享徳4年2月19日(1455年3月7日)
死没明応5年4月25日(1496年6月6日)
改名次郎法師丸(幼名)[1]、政則
戒名松泉院無等性雲
官位従三位、兵部少輔、左京大夫
幕府室町幕府侍所頭人、加賀半国守護→播磨・美作・備前守護(後に山城守護補任)
主君足利義政→義尚→義稙→義澄
氏族赤松氏
父母父:赤松時勝
妻正室:伊勢貞親の娘?[注釈 1]
継室:洞松院(細川勝元娘)
子村秀、小めし(松)(赤松義村正室)
養子:義村、真龍
赤松 政則(あかまつ まさのり)は、室町時代後期の武将・大名。加賀半国・播磨・美作・備前の守護大名・戦国大名。赤松家の第9代当主(当主在職:長禄2年(1458年)9月 - 明応5年4月25日(1496年6月6日))。
嘉吉の乱で滅亡した赤松家を再興した中興の英主で、管領の細川家に接近して中央政界での影響力を高めて従三位まで登り詰めた。一方で赤松家の戦国大名化も務め、1代で赤松家の全盛期を築き上げた。 享徳4年(1455年)2月19日(『蔭凉軒日録
生涯
生まれ
政則が生まれて7か月後の10月に父の時勝は死去した。母も早世したとされ、政則は幼少期から不幸な生活を送ったとされる。政則の養育には家臣の浦上則宗が務めて主従苦楽を共にし(『浦上美作守則宗寿賛』)、これが後に大名家に再興した際の政則・則宗体制の原点となった[3]。 嘉吉の乱以後、旧赤松領は山名氏の領国となり赤松家の旧臣は排除され、または浪人となり討伐の対象とされることもあった。このため、赤松家旧臣の多くは主家再興を悲願としていた[4]。 赤松家の旧臣・上月満吉
長禄の変と赤松家の再興
幕府が赤松家の再興を認めた背景には、長禄の変における功績の他に山名氏に対する政治背景があったとされる。嘉吉の乱で旧赤松領を分国とした山名氏の勢力は幕府を脅かすほど強大化していたため、赤松家を再興することで山名氏の牽制に当てる狙いがあったとされている[5]。また赤松家再興と所領の付与には細川勝元が積極的に関与していることも確認されており(『蔭凉軒日録』)、赤松家を取り立てることで山名宗全に対抗する政治的意図があったとされている[6]。
赤松政則には幕府から勲功として加賀北半国の守護職、備前新田荘、伊勢高宮保が与えられた[6]。代わりに北半国の守護だった富樫成春は追放されている。 政則は新しい所領の支配を整備するため、備前には一族の宇野上野入道を差し向けたが、備前守護の山名教之と交戦状態となり、新田荘の内、三石・藤野・吉永は含まれるか否かの訴訟まで起こされているが、幕府から退けられた。
加賀半国の支配