赤松政則
[Wikipedia|▼Menu]
寛正6年(1465年)11月、山城西岡で土一揆が起こると、則宗は京極氏に協力して鎮圧に貢献し、こうして赤松家は幼少の当主・政則を擁する奉行人・浦上則宗の両体制が確立していくことになる[9]。同年12月26日、政則は義政の「政」の偏諱を授かり元服する[12]

赤松家旧本拠の播磨では、赤松家再興と共に赤松系浪人の動きが活発化しだした。寛正6年(1465年)6月12日には幕府がこの動きを危険視し、罪科を招きそうな播磨牢人衆の名前の注進を山名宗全に命じているほどで(『伊和神社文書』)、播磨国内における不穏分子、反山名勢力等が結集され始めていた[13]

文正元年(1466年)、細川勝元らにより義政の近臣であった伊勢貞親や禅僧の季瓊真蘂斯波義敏らが政界を追われる文正の政変が起こると政則も失脚したが、勝元の支援を受けることで政界に復帰する。
応仁の乱と播磨奪回

応仁元年(1467年)5月からの応仁の乱では、政則は東軍(細川勝元側)に与した。政則は山名主力が京都に集中しているのを見て、応仁の乱開始直後に山名宗全が率いる西軍と京都で交戦しながら、一方で家臣の宇野政秀らを播磨へ攻め込ませ、赤松氏の旧領であった播磨・備前・美作に侵攻させた。播磨奪回においては赤松家の旧本拠だった事もあり旧臣・牢人から寺社・百姓・土民までが協力したこともあり、数日で奪回した(『応仁記』『難波文書』『広峯文書』)。他の旧領である備前・美作も応仁2年(1468年)までに武力で奪回し、支配下とした[14][15](加賀半国は富樫政親が奪回)。

文明3年(1471年)には侍所頭人に任じられるなど、将軍義政の信任と寵愛を受けた。政則は猿楽の名手であり、それが義政に気に入られた理由とする説がある[16]

赤松氏の旧領奪回という悲願が果たされながら、今度は赤松家内部で家督争いが起こった。一族の有馬元家が赤松惣領家の地位を狙って政則に叛旗を翻した(『大乗院寺社雑事記』)。政則は応仁2年(1468年)に元家を殺害し、これは鎮圧したが、以後の政則は内紛に苦しめられていくことになる[17]

応仁の乱は文明5年(1473年)に東西両軍の首脳である山名宗全・細川勝元が相次いで死去したため、翌年にそれぞれの後継者である山名政豊細川政元が講和を結んだが、政則はこの講和に最後まで反対した(『大乗院寺社雑事記』)。これは戦乱の終結で奪回した3か国を失うことを恐れたためとされる。結果として、政則が奪回した領国はそのまま赤松家の分国として保全された[18]
播磨支配と相次ぐ内紛

文明10年(1478年)、応仁の乱が終結した頃から、赤松家の播磨支配に動揺が見られるようになった。先の有馬氏の反乱の他、文明3年(1471年)には赤松家の一族で播磨北部に勢力を持つ在田氏が、仙洞御料所の松井荘を横領するという事件を起こした[18]。この時は政則が派遣した宇野政秀と堀秀世により一旦鎮圧された(『島田文書』)。だが在田氏と政則の対立は続き、9年後の文明12年(1480年)5月にようやく政則は在田一族を失脚させたが(『大乗院寺社雑事記』)、同年9月には在田残党が所領を再度横領した(『魚住文書』)。しびれを切らした政則は、文明14年(1482年)閏7月、在田一族4名を殺害した(『大乗院寺社雑事記』)。この一連の争いは、在田氏が赤松惣領家の家督を狙ってのことであったとする見解がある[19]

領国支配の動揺が見られる一方で、政則の中央政界における立場も悪化した。文明11年(1479年)8月、幕府により政則は出仕の停止を命じられた(『雅久宿彌記』『晴富宿彌記』)。赤松領内における寺社領の扱いにおいて、将軍・足利義尚の意向に沿わなかったことが理由とされているが、当時の幕府はその権力が衰退しており、寺社領などの横領は赤松家に限らず各地の守護大名がやっていた事である[19]。当時、義尚とその父で大御所の義政の対立があり、政則は義政の寵臣だったことが出仕停止の真の理由ではないかと推測されている。

これに対して政則は10月には浦上則宗に京都と侍所の留守を任せて義政にも告げることのないまま領国の播磨国へと下る。播磨への下向目的として、播磨における守護権力の立て直しにあったと思われるが、筆頭重臣である浦上が両国に不在でかつ京都の幕府との関係維持に奔走していたことで、政則の播磨における親政が本格化することになる(なお、結果的にこれ以降、赤松家の当主が京都に常駐することはなくなることになる)[20]

文明12年(1480年)10月には播磨で徳政に関連する土一揆蜂起の風聞が流れた(『清水寺文書』)。赤松家は土一揆を起こすなら厳しく対処すると宗徒に通告した。このように、播磨など旧赤松領内では赤松一族の内紛、中央政界での立場悪化などから領国支配が不安定になっていた。これは赤松家が播磨を奪回した際に、在地の豪族を被官に取り込んでいたためである、と推測されている。当時の「赤松家」の領国統治の基盤はすなわち彼ら在地豪族の協力により成立しており、彼らの協力を得られなければ「赤松家」そのものが存続できなくなる危険性を孕んでいた[21]
山名政豊との戦い

赤松政則が一代にして播磨を中心に山陽地方に勢力を回復したため、旧赤松領を支配していた山陰地方に勢力を張る山名宗全の孫・政豊との対立・抗争が当然ながら起こり、応仁の乱の収束後も抗争は続いた。政則は山名領の因幡で強大な勢力を保持していた国人毛利次郎貞元を支援して因幡守護・山名豊氏を圧迫させたが、これは政豊により鎮圧された(毛利次郎の乱[21]。また伯耆でも山名豊氏の弟で同国守護の元之と豊氏の子・政之による争いが起こり、政則は政之を支援して元之の追放を目論むなどの工作を行った(山名新九郎・小太郎の乱[21]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:57 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef