赤尾敏
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議会からも譴責の懲罰を下されるなど、右翼ながら筋を通した反体制派議員としての行動が目立った。なお、戦後国会内でのビラ撒きにより元国会議員待遇を剥奪されている(当選無効ではないので、国会議員であった事実が取り消されたわけではない。選挙報道などでは、その後も「元議員」として扱われている)。1945年8月敗戦後、全土を巡って右翼活動と啓発講演活動を通い、敗戦を克服して再び立ち上がることを主張した。以降、連日東京・数寄屋橋で辻説法を行なった。
戦後
右翼政治運動

第二次世界大戦後にGHQによって公職追放され、追放解除後の1951年大日本愛国党を結成し、総裁に就任。1952年の総選挙に出馬するが落選。以後、親米反共の立場からの右翼活動に関わる一方で、各種選挙に立候補し、参議院全国区では最高で122532票(第6回参院選)を獲得した。もっとも、選挙のたびに立候補したのは、選挙期間中も街頭での辻説法を行うことが主な理由だったという。参議院不要論を唱え、参院選のたびに自分へも投票せず棄権するよう訴え続けた。

配下の党員であった山口二矢(事件当時は離党)が起こした浅沼稲次郎暗殺事件では取調べを受け、嶋中事件では殺人教唆で逮捕されている(証拠不十分で釈放)。沢木耕太郎『テロルの決算』によると、山口は浅沼の「アメリカ帝国主義は日両国人民の共同の敵」発言に殺意を抱いたという(このことは本人の「斬奸状」にも触れられている)。また、赤尾が個人的に交流のあった浅沼を「善人だから始末に悪い」と評したこともきっかけとなったのではないかとする。事件後赤尾は浅沼の妻享子三木睦子と電話で連絡を取り合ったというエピソードもある。1961年2月嶋中事件に関連、警視庁愛国党の総裁の赤尾敏が背後にあると考え、同年2月21日、赤尾を殺人教唆、殺人未遂の教唆などで逮捕したが、4月17日、赤尾は証拠不十分で不起訴になった。

また、アメリカンアセンブリーと国際親善日本委員会が主催していた第二回下田会議の初日、長髪をなびかせ数人を引き連れてロビーに押し込もうとしたことがある。日の丸の旗を振りながらホテルに上がってきた赤尾は「共産主義の脅威と戦うために再軍備すべきだ」と主張したが、駆け付けた警察に逮捕された。

銀座数寄屋橋での辻説法は当地の名物であった。街宣車を導入した右翼のはしりとも言われる。
浅沼稲次郎暗殺事件と嶋中事件

1960年1月、警視庁によって赤尾の家から左派性向文化人とジャーナリスト、学者へのいやがらせに使われた「かぎ十字ポスター」が押収された。浅沼委員長刺殺事件当日、その党員十数人は日比谷公会堂の前から3、4番目の席に陣取った。入場券は確保していなかったが、会場前のダフ屋から購入した。山口が浅沼委員長を襲った直後、出血が少ないことに気づいた赤尾は、隣の人間に「坊や(山口)、やりそこなったかな」と話しかけたという。またニュース映画「毎日ニュース」には、「坊やがよくやったもんだ、偉いもんだ」という発言や、当時の日教組委員長殺害を企て上京した少女を歓迎する様子が残っている。

10月29日、赤尾は威力業務妨害容疑で逮捕された。11月には大日本愛国党が破防法の調査対象団体に指定される。愛国党員だった山口二矢が起こした浅沼稲次郎暗殺事件では、取調べを受けた。赤尾は、個人的に交流のあった浅沼を評して「善人だから始末に悪い」と語っていた。山口の自殺の2日後、赤尾総裁は「直接の関係はなし」とされ釈放された。ただ嶋中事件が起こった後、初めて会場のビラ撒きと浅沼委員長の演説妨害について起訴された。しかしやはり嫌疑不十分で釈放された。
晩年

街宣車には日の丸旭日旗とともに星条旗ユニオンジャックを掲げ、「ソ連・中共を叩くために日本はアメリカ・イギリスと組むべき」として徹底して親米・親英をアピールし続けた。日米安保に肯定的であった。昭和天皇の戦争責任を認めるような発言をしたこともあるが、1989年の参院選政見放送では土井たか子天皇に戦争責任があると発言したことに対し批判をしている。韓国にも反共主義のために好意的であり、「北朝鮮打倒のために日韓は協力すべき」と述べていた。

昭和天皇の大喪の礼に続く、1989年第15回参議院議員通常選挙東京都選挙区から満90歳で出馬、政見放送では意気軒昂に演説した。国政選挙の高齢立候補者としては、94歳で立候補した1953年第26回衆議院議員総選挙での尾崎行雄(落選し引退)、2012年第46回衆議院議員総選挙での川島良吉(埼玉12区)に次ぐ第3位の高齢である。

著書に『日本の外交を何とするか』『滅共反ソか反英米か』ほか。1990年2月6日午前9時26分、東京都立大塚病院心不全のため死去。91歳没。墓所は横須賀市東光寺。
略歴

1899年 - 愛知県名古屋市東区生まれ。

建国会理事長

1942年 - 第21回衆議院議員総選挙で東京6区から出馬し当選。

終戦後、公職追放を受ける。

1951年 - 大日本愛国党を結成

1990年 - 心不全のため死去

選挙歴1942年

※1942年以外は全て落選

1937年 東京市会議員選挙(東京市荒川区)

1942年 第21回衆議院議員総選挙東京府第6区)

1952年 第24回衆議院補欠選挙(東京都第6区

1952年 第25回衆議院議員総選挙(東京都第6区)

1953年 第26回衆議院議員総選挙(東京都第6区)

1955年 第27回衆議院議員総選挙(東京都第6区)

1956年 第4回参議院議員通常選挙東京都選挙区

1958年 第28回衆議院議員総選挙(東京都第6区)

1959年 東京都知事選挙

1959年 第5回参議院議員通常選挙(東京都選挙区)

1960年 第29回衆議院議員総選挙(東京都第6区)

1963年 東京都知事選挙

1967年 第31回衆議院議員総選挙(東京都第6区)

1967年 東京都知事選挙

1968年 第8回参議院議員通常選挙(東京都選挙区)

1969年 第32回衆議院議員総選挙(東京都第6区)

1971年 東京都知事選挙

1971年 第9回参議院議員通常選挙(東京都選挙区)

1974年 第10回参議院議員通常選挙(東京都選挙区)

1975年 東京都知事選挙

1979年 東京都知事選挙


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