赤坂_(東京都港区)
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明治21年に完全に埋め立てられて溜池町となった[11]

昭和初期から昭和40年代にかけてはこの周辺に輸入外車の販売店が集積するようになり、自動車街と呼ばれるようになった。溜池交差点から山王下までだけでも日本自動車フィアットアウディアメリカン・モーターズ)・三和自動車パッカードポルシェ)、東邦モーターズオペルオールズモビル)、日英自動車MGポンティアック)、安全自動車ダッジ)、国際自動車商事ランチア)、八洲自動車(クライスラー)などが軒を連ねていた。輸入車は当時の平均的日本人の生活水準からは極めて高価な存在で、購入するなど思いもつかなかった当時のカーマニアたちはカメラ片手に散策を楽しんだ。しかし、昭和50年代以降はオフィスビル化が進み、今は当時の面影を殆ど残していない。

1966年の住居表示実施に伴う町丁名変更により赤坂一丁目と赤坂二丁目が誕生し、溜池町は消滅。今日、溜池交差点や東京地下鉄溜池山王駅都営バス都01系統)溜池停留所などに名を残している。
一ツ木町

江戸時代には町奉行を務めた大岡忠相の屋敷があった。大岡邸内にあった豊川稲荷は現在も残り、盗難よけの御利益があるとされ信仰を集めている。戦前には近衛歩兵第二旅団司令部、同歩兵第三連隊があり軍隊の街であった。1955年にラジオ東京(現:TBSホールディングス)が一ツ木町に局舎を建設した(当初はテレビ部門のみ入居し、1962年有楽町にあったラジオ部門も赤坂に移転してきた)。歴史の項にもあるように江戸時代以前からの地名(人継→一ツ木)であったが、1966年の住居表示実施に伴う町名変更により赤坂四丁目と赤坂五丁目が誕生し[7]、一ツ木町は消滅した。一ツ木通りに名を残す。
赤坂表町赤坂表町の秩父宮

寛永13年 (1636) に家康入国以来、よく務めを果たしたとして南伝馬町の伝馬役3名に褒美として与えられた土地で、初めは赤坂新伝馬町と称し、その後表通りが表伝馬町、裏通りが裏伝馬町となり、明治5年 (1872) に赤坂表1?4丁目、同44年 (1911) に赤坂表町1?4丁目となった[13]。明治時代には、1・2丁目の東半分の表通りは商店街として賑わい、3・4丁目は旧武家屋敷であり官公庁や華族などの邸宅地となった[13]。1966年に1丁目が元赤坂1丁目に、2丁目が元赤坂1丁目と赤坂4丁目に、3丁目が赤坂4・7丁目に、4丁目が赤坂8丁目に編入された。
赤坂田町

赤坂田町は古くは湿地帯で、その後田畑が発達したことから田町と命名された[14]。家康入府以来の功により南伝馬町の御馬役に大縄地として賜り、島原の乱の翌1638年に町屋を取り立て、城中の御能の拝見を許され、その際に酒菓を頂戴する特権も許された[15]1760年宝暦10年)には紺屋の物干場が設けられ、1817年文化10年)には床店が見られ、低廉客向けの岡場所も出来て人気を集めた[16]明治時代には1?4丁目(現:赤坂3丁目)は赤坂花柳界の中心地として賑わった[14]。1966年に赤坂田町1?7丁目が赤坂1?3丁目に変更された。外堀通りとみすじ通りの間を平行に走る650mの通りは「赤坂田町通り」と旧町名を残して呼ばれ、繁華街として賑わっていたが、1970年代に高級料亭がなくなると荒れた雰囲気となり、暴力団が関係する風俗店や飲食店、韓国系のビル所有者やテナント料飲店が入居し、「ヤッカン通り」とも呼ばれるようになった[17]。その後道路整備工事が行われ、現在は「エスプラナード赤坂通り」という商店街になっている[18]

1973年の赤坂見附立体交差点付近

永田町から赤坂見附立体交差を見る

一ツ木通り

TBS放送センター

世帯数と人口

2019年(令和元年)8月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[2]

丁目世帯数人口
赤坂一丁目300世帯642人
赤坂二丁目2,090世帯3,085人
赤坂三丁目195世帯266人
赤坂四丁目1,358世帯2,280人
赤坂五丁目530世帯901人
赤坂六丁目2,489世帯4,003人
赤坂七丁目1,559世帯2,553人
赤坂八丁目1,737世帯3,293人
赤坂九丁目1,453世帯2,157人


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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