実施後実施年月日実施前(特記なければ各町丁ともその一部) 「赤坂」とつく町名である元赤坂一丁目・二丁目と赤坂一丁目?九丁目は、1966年の住居表示実施により誕生した。これにより、この地に古くから続いていた町名が失われることになった。現在「赤坂」とつく町域を構成していた旧町名(港区発足直前の町名)を以下に全て挙げる。 なお、港区が誕生した1947年、旧赤坂区の町名には全て「赤坂」を冠する町名変更が行われた(例:一ツ木町→赤坂一ツ木町、青山権田原町→赤坂青山権田原町、など。元赤坂町など一部例外あり)。この「赤坂」を冠する町名(以下のカッコ内の町名)は、住居表示実施まで続いた。 溜池は江戸城外濠の一部を構成していた。元々水の湧く所であり、堤を作り水を溜めるようにしたためこの名がある。その形から別名ひょうたん池とも呼ばれた。神田上水、玉川上水が整備されるまではこの溜池の水を上水として利用していた。堤に印の榎を植えたため、現在赤坂ツインタワーから駐日アメリカ合衆国大使館に上る坂道は榎坂と呼ばれる。 宝永年間より断続的に埋め立てられた。明治21年に完全に埋め立てられて溜池町となった[11]。 昭和初期から昭和40年代にかけてはこの周辺に輸入外車の販売店が集積するようになり、自動車街と呼ばれるようになった。溜池交差点から山王下までだけでも日本自動車(フィアット、アウディ、アメリカン・モーターズ)・三和自動車(パッカード、ポルシェ)、東邦モーターズ(オペル、オールズモビル)、日英自動車(MGやポンティアック)、安全自動車(ダッジ)、国際自動車商事(ランチア)、八洲自動車(クライスラー)などが軒を連ねていた。輸入車は当時の平均的日本人の生活水準からは極めて高価な存在で、購入するなど思いもつかなかった当時のカーマニアたちはカメラ片手に散策を楽しんだ。しかし、昭和50年代以降はオフィスビル化が進み、今は当時の面影を殆ど残していない。 1966年の住居表示実施に伴う町丁名変更により赤坂一丁目と赤坂二丁目が誕生し、溜池町は消滅。今日、溜池交差点や東京地下鉄溜池山王駅、都営バス(都01系統)溜池停留所などに名を残している。 江戸時代には町奉行を務めた大岡忠相の屋敷があった。大岡邸内にあった豊川稲荷は現在も残り、盗難よけの御利益があるとされ信仰を集めている。戦前には近衛歩兵第二旅団司令部、同歩兵第三連隊があり軍隊の街であった。1955年にラジオ東京(現:TBSホールディングス)が一ツ木町に局舎を建設した(当初はテレビ部門のみ入居し、1962年に有楽町にあったラジオ部門も赤坂に移転してきた)。歴史の項にもあるように江戸時代以前からの地名(人継→一ツ木)であったが、1966年の住居表示実施に伴う町名変更により赤坂四丁目と赤坂五丁目が誕生し[7]、一ツ木町は消滅した。
赤坂一丁目1966年7月1日赤坂溜池町、赤坂田町七丁目、赤坂榎坂町、赤坂霊南坂町
赤坂二丁目赤坂溜池町、赤坂田町五丁目(全域)、赤坂田町六丁目(全域)、赤坂田町七丁目、赤坂新町三丁目、赤坂福吉町、麻布谷町
赤坂三丁目赤坂田町一丁目(全域)、赤坂田町二丁目(全域)、赤坂田町三丁目(全域)、赤坂田町四丁目(全域)、赤坂新町一丁目(全域)、赤坂新町二丁目(全域)、赤坂新町三丁目
赤坂四丁目赤坂表町二丁目、赤坂表町三丁目、赤坂一ツ木町、赤坂丹後町(全域)
赤坂五丁目赤坂新町三丁目、赤坂新町四丁目(全域)、赤坂一ツ木町
赤坂六丁目赤坂新町五丁目、赤坂中ノ町(全域)、赤坂氷川町(全域)、赤坂福吉町
赤坂七丁目赤坂表町三丁目、赤坂台町(全域)、赤坂新町五丁目
赤坂八丁目赤坂表町四丁目(全域)、赤坂新坂町、赤坂檜町
赤坂九丁目赤坂檜町
消滅した町名
葵町(赤坂葵町)
青山権田原町(赤坂青山権田原町)
青山六軒町(赤坂青山六軒町)
一ツ木町(赤坂一ツ木町)
榎坂町(赤坂榎坂町)
表町(赤坂表町)
新町(赤坂新町)
新坂町(赤坂新坂町)
台町(赤坂台町)
田町(赤坂田町)
溜池町(赤坂溜池町)
丹後町(赤坂丹後町)
伝馬町(赤坂伝馬町)
中ノ町(赤坂中ノ町)
氷川町(赤坂氷川町)
桧町(赤坂桧町)
福吉町(赤坂福吉町)
元赤坂町
霊南坂町(赤坂霊南坂町)
溜池町広重「名所江戸百景」に描かれた江戸末期の溜池。対岸に山王社の森を望む。題にある『赤坂桐畑』は、赤坂田町6丁目辺り[11]。桐は、溜池の補強のために成長が早い木として植えられていた[12]。
一ツ木町