赤十字社
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またパキスタンマレーシアバングラデシュなどは設立当初は「赤十字社」であったが、のちに「赤新月社」に変更した)。また、イランの「赤獅子太陽」(Red Lion with Sun)も公認された[注 2]。ただし赤十字社はこうした異なるマークの採用には非常に否定的なスタンスを貫いており、第二次世界大戦後にユダヤ教を国教とするイスラエルが独立し、マーゲン・ダビド公社(=ダビデの赤盾社)が設立された時に、彼らのマークとして提唱された「ダビデの赤盾」(Red Star of David)を赤十字社のマークとして認定することを拒否しており、「ダビデの赤盾」は今までに承認されたことはない。なお、赤獅子太陽は現在使用されていない(条約上は有効である)[8]

赤十字・赤新月の他にも種々の標章が乱立し混乱を招くことから、赤十字・赤新月に代わる共通の(=第三の)標章採用が提案された。これには加盟国の合意に基づくジュネーブ条約の改訂を要する為に議論は紛糾したが、2005年12月8日の赤十字・赤新月国際会議総会において、全会一致原則の総会では異例である投票による賛成多数により、赤の菱形を象った宗教的に中立な第三の標章「赤水晶」(Red Crystal)が採択された。これは、ジュネーブ諸条約第三追加議定書(英語版)として、署名が開放され、2007年1月14日に発効した。「赤水晶」の標章の意味や法的効力は従来の赤十字・赤新月と完全に同一である。

「赤水晶」(Red Crystal)を用いることで、イスラエルの赤盾社は国際赤十字への加盟が出来る事となり、赤十字国際委員会は同社を正式に承認した。ただし、「ダビデの赤盾」の標章は、イスラエル国内(国境紛争中のウエストバンクと東エルサレム地域を除く)のみで用いる「表示標章」であり、ジュネーブ条約の「保護標章」としては認められていない。同様に国内での宗教勢力のバランスから赤十字・赤新月の標章を併用したいと主張しているエリトリア等の国や地域でも、「赤水晶」を使用することで国際赤十字への加盟を期待している[9]。また、この「赤水晶」の標章は単独で用いる以外に、国際活動を行う際にホストとなる国の了承があれば、中の白地の部分に独自のマークを入れても構わない[注 3]

なお、「赤十字」マークに対するかなり強硬な統一標章維持の姿勢とは異なり、赤十字・赤新月・赤水晶の各標章において、その標章の明確な形状は指定されていない。色調においても同様である。これは、もし明確な形状・色調を定めてしまった場合、その標章から少しでも外れたものが赤十字標章とみなされず攻撃を受けてしまうことを防ぐためである[10]。また、標章を使用できるのは法律で定められた組織・団体に限られる[11]
保護標章「国際人道法#特殊標章」も参照

日本陸上自衛隊野戦用救急車

オーストリア赤十字社の救急車

米海軍病院船マーシー

日本の西南戦争。右から2番目の兵の背嚢に赤十字が入っている(1877年)

赤十字及び赤新月の標章(類似のものを含む)は、「戦地にある軍隊の傷者及び病者の状態の改善に関する1949年8月12日のジュネーブ条約」(ジュネーブ諸条約の第一条約。傷病者保護条約)第44条により赤十字社・赤新月社と「軍隊およびこれに準ずる組織の医療・衛生部隊の人員・施設資機材」、さらにはジュネーヴ諸条約第一追加議定書(1977年)第8条により、(軍民を問わない)「医療組織、医療用輸送手段、医療要員、医療機器、医療用品、宗教要員、宗教上の器具及び宗教上の用品の保護」のために用いられる。これは、赤十字・赤新月の関係者・施設資機材は、人道上、戦地・紛争地でのあらゆる攻撃から無条件で保護されねばならない存在だからである。単に医療施設を表すのではないことが厳格に規定されている。ただし、各国赤十字社・赤新月社から許可を受けた上での、救急車や救護所での平時の使用は例外的に認められている(第1条約第44条第4項)。

日本国内においては、「赤十字の標章及び名称等の使用の制限に関する法律」によって、第1条に規定された赤十字、赤新月、赤のライオン及び太陽[注 4]の標章及び名称の使用は、日本赤十字社(第2条)及びその許可を受けた者(第3条)のみに制限されており、みだりに使用した場合は懲役または罰金刑に処される(第4条)。(公記号偽造罪・公記号不正使用罪が適用されることもある)しかし、一般の病院薬局テレビ番組広告などでの誤った使用が後を絶たないことから、日本赤十字社では誤用しないように呼び掛けている[12][13]。ただし、平成14年図式地図記号では、病院を示す記号にホームベース型をした五角形の中に十字が入る記号が制定されており、保健所を示す記号に円形の中に十字が入る記号が制定されている[14]。由来は病院が旧陸軍の衛生隊のマークで[15]、病院の記号を元に変更されたものが保健所とされている[16]。医療や福祉関連以外では、キックボクサー羅紗陀が、2005年のデビューから2009年までのリングネームに「赤十字竜」(あかじゅうじりょう)を名乗っていたため、日本赤十字社からの抗議を受けリングネームを改称している[17]

なお、武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律第157条第2項では、武力攻撃事態等においては、指定行政機関の長又は都道府県知事が、医療機関や医療関係者に赤十字標章等を使用させることができるとされている。

また、商標法第4条第1項第4号においては、赤十字の標章及び名称等の使用の制限に関する法律第1条の標章及び名称については、商標登録を受けることができないとされている[18]
歴史
設立アンリ・デュナン。『ソルフェリーノの思い出』を執筆し、赤十字設立を提唱した1864年ジュネーヴ条約の原本

赤十字社の創設者は、スイス・ジュネーブ出身のアンリ・デュナンである。デュナンは1859年、北イタリアソルフェリーノの戦いに遭遇し、その悲惨さに大きな衝撃を受けた。帰国したデュナンは1862年、『ソルフェリーノの思い出』を出版し、その中で「各国に、戦争となった際に戦いの犠牲者たちを救援する組織を設けること」「戦闘による負傷者や、その負傷者の救援にあたる者を、戦闘に加わるいずれの側からも保護する法を定めること」の二つを提案した。

デュナンのこの提案は大きな反響を呼び、1863年2月にはジュネーブにおいて、デュナン、アンリ・デュフールギュスターブ・モアニエ、ルイ・アッピア、テオドール・モノアールの5人によって「国際負傷軍人救護常置委員会」(五人委員会。現・赤十字国際委員会)が発足した。この5人はそれぞれ赤十字の設立に大きな役割を果たした。デュナンは赤十字をはじめて構想した人物であり、また優れた行動力で各国において赤十字の必要性を説き、支持を獲得していった。デュフールは1847年分離同盟戦争においてスイスの分裂を防いだ名将であり、またこの時に捕虜や負傷者に対し人道的な対応を取ったことですでに名声を確立していた。この名声と各国への人脈から五人委員会の委員長となり、草創期の赤十字運動において指導的な役割を果たした。モアニエは弁護士であり、赤十字運動の理論化と組織化に力を尽くして、1910年に亡くなるまでこの運動の中核を担い続け、赤十字の育ての親ともいわれる。アッピアは戦傷外科の権威であり、自らも医師として積極的に救護に出向くとともに、医学的な方面から助言を行った。モノアールも外科医であり、指導層だけでなく一般市民への広報を重視していた[19]

1863年3月には五人委員会において、委員会自身ではなく各国がそれぞれ民間救護団体を設立するという方針が確立され、同年8月にはジュネーブでこの問題に関する会議を10月に開催することが決定された。これを受け各委員は各国に精力的な呼びかけを行い、10月には予定通りジュネーブにおいて、スイス、イギリスフランスイタリアスペインオランダスウェーデンロシアオーストリアプロイセンバーデンバイエルンハノーファーヘッセン・カッセルザクセンヴュルテンベルクの16カ国が参加する会議が開かれ、このとき各国に救護団体を設立することが決定し、赤十字標章等を定めた赤十字規約が採択された[20]


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