赤井英和
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浪速高等学校(浪高)入学と同時にボクシング部で活躍し、3年生にライトウェルター級インターハイ、アジアジュニアアマチュアボクシング選手権を優勝した実績を引っさげて、近畿大学進学、東京オリンピック日本代表浜田吉治郎の指導を受けた。浪高の2学年下のインターハイチャンピオン・釘田修吉(現在タレントの和泉修)とは今も交友がある。同期で大阪のライバル、浪商高校のボクシング部には後の1984年ロサンゼルスオリンピック日本代表名城信男の恩師でもある高見公明もいた。高見は赤井と同じインターハイで優勝している。1980年モスクワオリンピックでも日本代表は確実視されたが結局補欠にとどまる(ライト級、代表は荒井幸人)。その後、いわゆる東西冷戦のあおりを受けての日本代表の出場辞退(ボイコット)により、モスクワオリンピック出場への道を完全に断たれたことから学生プロボクサーに転向することが決まり、1980年9月に愛寿ボクシングジム(現グリーンツダボクシングジム)に入門。アマチュア時代は、新進ボクシングジム(現新日本大阪ボクシングジム)に、在籍していた。
浪速のロッキー

プロになってからの赤井は、プロ4戦目の全日本新人王決定戦では尾崎富士雄に3RKO勝ちしジュニアウェルター級全日本新人王を獲得、その後も攻撃型ボクサーとして当時の日本記録であるデビュー以来12試合連続ノックアウト勝ちという快挙を成し遂げ、その試合スタイルから「浪速のロッキー」という愛称が付いた[3]。強打を武器に世界タイトル獲得も時間の問題とまでいわれ、試合後のユニークなインタビューのコメントも人気を呼び、ノンタイトル戦ながら全国中継(朝日放送発)で取り上げられるまでに注目を集めた。当時関西出身の世界王者渡辺二郎よりも赤井の人気と知名度は高かった。
世界タイトル挑戦

1983年7月7日、近畿大学記念会館で行われたWBC世界スーパーライト級タイトルマッチで、アメリカのブルース・カリー(英語版)に挑戦。試合前日の記者会見で「7月7日やから7回に倒してパチンコのフィーバーにしたる」と宣言していたが、皮肉にも第7ラウンドでTKO負けを喫してしまい、世界タイトルは逃してしまった。まもなく敗戦のショックにより、引退をほのめかすような一筆を残して失踪。しかし、数日後現役続行を決意する。

この世界挑戦敗退後、正式に赤井の専属トレーナーとなるエディ・タウンゼントは、誰とは明言していないが、そのボクサーは優れた才能は持っているが、ボクサーとしては誘惑に弱すぎた、誘惑の味を知ってからの世界へのスタートは遅すぎる、という趣旨の発言を後にしている(「赤井とはもう少し早く一緒にやりたかった」等)。この発言は、赤井のことを示しているとされている。
KO負け・怪我・引退

その後、赤井は再び世界を目指すべく再起をかけることになり、2度目の世界タイトルを目指そうとした前哨戦として、1985年2月5日に開かれた大和田正春との試合に臨む。しかしこの試合、赤井はあまりにも大和田の強打に打たれ過ぎ、またも第7ラウンドでのKO負けの後、意識不明に陥る。急性硬膜下血腫脳挫傷と診断され、大阪市内の富永病院で開頭手術が行われた。搬送時生存率20%、手術後生存率50%と極めて重篤な状態であったが、無事に回復(本人曰く、開頭中に意識が回復し、タオルで包まれた自分の脳を触ったという。触ると強烈な吐き気を催したが、その理由が解らず何度も触っては吐き気を催したと証言していた)。回復後はボクサー復帰も視野に入れていたが、医師からボクサーを引退するように勧告を受け、現役を引退する。

この生死をさまよっていた時、浪速高等学校ボクシング部の先輩であった藤本義一は、気の早いあるスポーツ紙に追悼文を書くように依頼されたという。しかし、「(まだ死んでもいないのに)冗談じゃない!」と一蹴した。その後赤井は、藤本と出会った際に「ありがとうございました」と、お礼を言ったという。

なお赤井は、2009年10月6日未明にフジテレビで放送された特別番組『僕と家族の公式記録』で、非公式ながら引退後25年振りにリングへ復帰(関西テレビでは同年10月14日未明に放送) ⇒[1]。1ヶ月に及ぶ禁酒・禁煙と、現在の妻が帯同したトレーニングの末に、現役のWBC世界バンタム級王者・長谷川穂積と3ラウンド(1ラウンド3分)の公開スパーリングに臨んだ ⇒[2]

上記の挑戦では、脳挫傷の影響が懸念されたが、医師による診察の結果「右側頭部にパンチをもらわない」との条件付きで試合を許可。番組制作者も、「体重を75kgにまで減らさなければ挑戦権を剥奪する」との制約を赤井に課す一方で、トレーニングの途中までは赤井に対戦相手を明かさなかった。

赤井自身は、引退後に節制とは縁遠い生活を続けた影響で、トレーニング前には現役時代の全盛期から体重が16kgも増えていた。しかし、「50歳の自分が真剣に戦うことで、(部員の不祥事で2009年6月に廃部へ追い込まれた)近畿大学ボクシング部の後輩たちに、“ボクシングは素晴らしい”とのメッセージを送りたい」との決意を胸に、178ラウンドに及ぶトレーニングで、5.2kgの減量に成功。この減量で体重が75kgを切ったことから、母校の浪速高校内に設けられたリングで、長谷川との対戦を実現させた。
俳優・タレントとしての経歴

引退後、母校・近畿大学のボクシング部コーチなど後継者育成を行っていたが、1988年に映画『またまたあぶない刑事』にゲスト出演し、俳優デビューを飾る。エンドロールには、名前の隣に「(浪花のロッキー)」のテロップがある。そして1989年に上映された阪本順治監督の『どついたるねん』で主役デビュー。この映画は赤井自身のボクサーとしての半生を絡ませた自伝的作品で、現役最終戦の対戦相手となった大和田も特別友情出演として登場し、その壮絶なファイトを再現した。

主な出演映画は、『どついたるねん』の他、『幻の光』(1995年)、『十五才 学校IV』(2000年)など。主にキャラクターを生かした熱血タイプの関西人役が多い。『東京エレベーターガール』では、妻子が別にありながら主人公の少女(宮沢りえ)とプラトニックな恋をする準主役でレギュラー出演した。ドラマ『高校教師』では、生活指導に厳しい体育教師を演じる。また、『人間・失格?たとえばぼくが死んだら』では、死に追い込まれた息子の復讐に奔走する父親役で連続ドラマに初主演し、一躍有名になる。


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