賤ヶ岳の戦い
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10月16日、勝家は堀秀政に覚書を送り、秀吉の清洲会議の誓約違反、及び不当な領地再分配、宝寺城の築城を非難している(『南行雑録』)。11月、勝家は前田利家金森長近不破勝光を使者として秀吉のもとに派遣し、秀吉との和睦を交渉させた。これは勝家が北陸に領地を持ち、冬には雪で行動が制限されることを理由とした見せかけの交渉であった。秀吉はこのことを見抜き、逆にこの際に三将を調略しており、さらには高山右近、中川清秀、筒井順慶、三好康長らに人質を入れさせ、畿内の城を固めている。
秀吉による長浜城、岐阜城攻め

12月2日12月26日)、秀吉は毛利氏対策として山陰は宮部継潤、山陽は蜂須賀正勝を置いた上で、和睦を反故にして大軍を率いて近江に出兵、長浜城を攻撃した。北陸は既に雪深かったために勝家は援軍が出せず、勝家の養子でもある城将柴田勝豊は、わずかな日数で秀吉に降伏した。さらに秀吉の軍は美濃に進駐、稲葉一鉄などから人質を収めるとともに、12月20日(1583年1月13日)には岐阜城にあった織田信孝を降伏させた。
滝川一益の挙兵

翌天正11年(1583年)正月、伊勢滝川一益が勝家への旗幟を明確にして挙兵し、関盛信一政父子が不在の隙に亀山城、峯城、関城、国府城、鹿伏兎城を調略、亀山城に滝川益氏、峯城に滝川益重、関城に滝川忠征を置き、自身は長島城で秀吉を迎え撃った。秀吉は諸勢力の調略や牽制もあり、一時京都に兵を退いていたが、翌月には大軍を率いこれらへの攻撃を再開、国府城を2月20日4月11日)に落とし、2月中旬には一益の本拠である長島城を攻撃したが、滝川勢の抵抗は頑強であり、亀山城は3月3日4月24日)、峯城は4月12日6月4日)まで持ち堪え、城兵は長島城に合流している。この時、亀山城、峯城の守将・益氏、益重は武勇を評され、益重は後に秀吉に仕えた。
勝家の挙兵

一方で越前・北ノ庄城にあった勝家は雪のため動くことができずにいたが、これらの情勢に耐え切れずついに2月末、近江に向けて出陣した。
合戦賤ヶ岳山頂と余呉湖賤ヶ岳古戦場登山道入口月岡芳年浮世絵シリーズ「月百姿」 No. 67、志津か嶽月 秀吉
対峙

3月12日5月3日)、柴田勝家佐久間盛政前田利家らと共におよそ3万の軍勢を率いて近江国柳ヶ瀬に到着し、布陣を完了させた。一益が篭る長島城を包囲していた秀吉は織田信雄蒲生氏郷の1万強の軍勢を伊勢に残し、3月19日5月10日)には5万といわれる兵力を率いて木ノ本に布陣した。双方直ちに攻撃に打って出ることはせず、しばらくは陣地や砦を盛んに構築した(遺構がある程度現在も残る)。また、丹羽長秀も勝家の西進に備え海津と敦賀に兵を出したため、戦線は膠着し、3月27日5月18日)秀吉は一部の軍勢を率いて長浜城へ帰還し、伊勢と近江の2方面に備えた。秀吉から秀長に「(自軍の)砦周囲の小屋は前野長康黒田官兵衛、木村隼人の部隊が手伝って壊すべきこと」と3月30日付けの書状が送られたが、この命令は実行されていない[1]
交戦

4月16日6月6日)、一度は秀吉に降伏していた織田信孝が伊勢の一益と結び再び挙兵、岐阜城下へ進出した。ここに来て近江、伊勢、美濃の3方面作戦を強いられることになった秀吉は翌4月17日6月7日)美濃に進軍するも、揖斐川の氾濫により大垣城に入った。秀吉の軍勢の多くが近江から離れたのを好機と見た勝家は部将・佐久間盛政の意見具申もあり、4月19日6月9日)、盛政に直ちに大岩山砦を攻撃させた。大岩山砦を守っていたのは中川清秀であったが、耐え切れず陥落、清秀は討死。続いて黒田孝高の部隊が盛政の攻撃を受けることとなったが、奮戦し守り抜いた。盛政はさらに岩崎山に陣取っていた高山右近を攻撃、右近も支えきれずに退却し、木ノ本の羽柴秀長の陣所に逃れた。この成果を得て勝家は盛政に撤退の命令を下したが、再三の命令にもかかわらず何故か盛政はこれに従おうとせず、前線に着陣し続けた。

4月20日6月10日)、劣勢であると判断した賤ヶ岳砦の守将、桑山重晴も撤退を開始する。これにより盛政が賤ヶ岳砦を占拠するのも時間の問題かと思われた。しかしその頃、時を同じくして船によって琵琶湖を渡っていた丹羽長秀が「一度坂本に戻るべし」という部下の反対にあうも機は今を置いて他にないと判断し、進路を変更して海津への上陸を敢行した事で戦局は一変。長秀率いる2,000の軍勢は撤退を開始していた桑山重晴の軍勢とちょうど鉢合わせする形となるとそれと合流し、そのまま賤ヶ岳周辺の盛政の軍勢を撃破し賤ヶ岳砦の確保に成功する。

同日、大垣城にいた秀吉は大岩山砦等の陣所の落城を知り、直ちに軍を返した。14時に大垣を出た秀吉軍は木ノ本までの13里(52キロ)の距離を5時間で移動した(美濃大返し)。佐久間盛政は、翌日の未明に秀吉らの大軍に強襲されたが奮闘。盛政隊を直接は崩せないと判断した秀吉は柴田勝政(盛政の実弟)に攻撃対象を変更、この勝政を盛政が救援するかたちで、両軍は激戦となった。この時に活躍したのが、羽柴秀吉側の、賤ヶ岳七本槍といわれる加藤清正、福島正則、加藤嘉明、平野長泰、脇坂安治、糟屋武則、片桐且元である。
勝家の敗走

ところがこの激戦の最中、茂山に布陣していた柴田側の前田利家の軍勢が突如として戦線離脱した。これにより後方の守りの陣形が崩れ佐久間隊の兵の士気が下がり、柴田軍全体の士気も一気に下がった。これは秀吉の勧誘に利家が早くから応じていたからではないかと推測される[2]。このため利家と対峙していた軍勢が柴田勢への攻撃に加わった。


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