賑給
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また、旧来の儒教による徳治的観念に加えて仏教の施行の観念も付け加えられ、公卿による施行を目的とした私的かつ特定の地域・人々を対象にした賑給も行われるようになる[4]。『江家次第』(第7「賑給使事」)によれば、平安京の左京・右京をそれぞれ5つの地区に分けられ、一条(および北辺)と七・八・九条は衛門府、二条と三・四条は兵衛府、五・六条は馬寮が管轄(左京は左の官司、右京は右の官司が担当)し、四等官のうち次官(すけ)から主典(さかん)までのうちより各3名(左衛門府・右衛門府・左兵衛府・右兵衛府からはそれぞれ3名×2=各6名、左馬寮・右馬寮からは各3名、合わせて30名)が賑給使として派遣された。更に賑給時のトラブルを防止するために検非違使が合わせて派遣される場合があった(『西宮記』巻3など、東西のがある七条が検非違使との兼帯が多い衛門府の管轄となっている背景の1つとみられている)。また、年中行事らしい現象として、支給される人数と米銭の総額があらかじめ決められていたことがあげられている。こうした年中行事としての賑給も、供給すべき現物の不足などによって時代とともに形骸化していき、鎌倉時代には廃絶状態となった。
脚注^ 「鰥寡孤独」(かんかこどく)は「鰥寡?独」(かんかけいどく)ともいわれる。ここで「鰥」とは男やもめ、「寡」は女やもめ、「?」は孤児、「独」は独居老人の意味である。『続日本紀1』直木孝次郎 他 訳注,平凡社(東洋文庫)1986年、68頁より)
^ 虎尾達哉『古代日本の官僚 天皇に仕えた怠惰な面々』(中公新書、2021年)p.171.
^ 寺内浩「京進米と都城」(初出:『史林』72巻6号(1989年)/所収:寺内『受領制の研究』(塙書房・2004年))
^ a b 櫛木謙周「<京中賑給>に関する基本的考察」(初出:『富山大学人文学部紀要』第12号(1987年)/所収:櫛木『日本古代の首都と公共性』(塙書房、2014年) ISBN 978-4-8273-1267-6

参考文献

舟尾好正「賑給」『
国史大辞典 7』(吉川弘文館 1986年) ISBN 978-4-642-00507-4

舟尾好正「賑給」『日本史大事典 3』(平凡社 1993年) ISBN 978-4-582-13104-8

朧谷寿「賑給」『平安時代史事典』(角川書店 1994年) ISBN 978-4-04-031700-7

寺内浩「賑給」『日本歴史大事典 2』(小学館 2000年) ISBN 978-4-09-523002-3

寺内浩「賑給」『歴史学事典 10 身分と共同体』(弘文堂 2003年) ISBN 978-4-335-21040-2

阪口勉「賑給」『日本古代史事典』(朝倉書店 2005年) ISBN 978-4-254-53014-8

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