資治通鑑
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このように冗長で非現実的な歴史著述が行われていた[6]のだが、司馬光は軍事面の史実や民間の野史に残っていた話を多く取り上げている。

司馬光が野史を多く使い、編年体という当時としては流行っていないスタイルで歴史を書こうとした理由としては、歴史学者稲葉一郎の研究では下記の要因が挙げられている。

正史が膨大であり、かつ官僚の履歴書と上表文で埋まっているので歴史の流れが理解しにくかったこと。このため不要な部分を節略すべきという考えが当時の学者たちの間で議論されていた。司馬光自身も幼少の頃から中国史を学んだが歴史の流れの把握に苦心していた。

唐にくらべて宋の科挙官僚は民衆出身者が多く、唐以来の貴族による歴史著述に不満が持たれていたこと。下記に述べる正史編纂官の偏見は当時の知識人を失望させていた。

正史、特に断代史の紀伝体では、歴史を編纂した勝者の王朝が「善」とされるため、隋の丞相李淵が反旗を翻し独立してを建国した時も「義兵をあげた」と明らかに不公平な描写がされていたことに当時の人々が不満を持っていたこと。これは断代史では解消できず、全部の歴史の流れを編年体で記すしかなかった。例えば鄭樵は「隋の家臣に過ぎない李淵の謀反のどこに正統性があるのか?義兵とは何を根拠に自分たちは正義だと言い張っているのか?」と批判している。

当時春秋学が発達し、編年体が見直されていたこと

[7]

当時の正史編纂官の偏見については宋の洪邁の『容斎四筆』巻十一に詳しく書かれている[8]

洪邁によると、当時の正史編纂官は「無礼なこと、家伝の記録、従軍した武将が書いた記録、野史に登場する些細なこと、正統ではない王朝の史実などは、恐らくそれを正史に記載すれば文が汚れます」と言って野史や従軍記、家伝を捨て去り儒教道徳的に問題のない話ばかりを史書に記載していた。司馬光はそうではなく、大胆に野史を使って不道徳なことも記載していると述べ、「だから資治通鑑の記事の本末は粲然と輝いており、野史や家伝を無視してはいけないということが分かるではないか」と述べている[9]

司馬光が野史を大いに採ったために、結果的に資治通鑑は残酷な描写が多いと言われるようになった。資治通鑑を研究した桑原隲蔵[10]は資治通鑑の食人描写をもとに史料を集めて有名な「支那人間に於ける食人肉の風習」という論文を書いたほどである[11]。これは司馬光が上記のような儒教的な曲筆をすべて排除し、正史が排除していた当時の武人の従軍記録や民間人の手記を「政治家の戒めになるもの」として参考にしているためである[12]。このことからしばしば「通鑑は小説を採る」と言われて批判されたが、元の『文献通考』は「唐・五代の記述で野史を多く採用しているのは、司馬光が世を矯正し、乱れた中国の風俗をただし、理想の社会を実現しようとしてやったことである。司馬校を誹謗中傷していたくだらない人間たちは司馬光の志を全く理解しようとしていない。悲しいことだ!」と弁護している[13]

逆に文官の功績を称えるために、正史が大量に採用していた文官の詩文や上表文はほとんど整理されてしまった。また、正史が文官の功績を称えるために記していた怪奇現象の類も全て削り、「君臣治乱・成敗安危の跡」すなわち歴史の大きな流れのみを重点的に記すようにした。このことはかなり問題となり、助手劉恕の息子、劉羲仲は『通鑑問疑』を著して「淮南王劉安や司馬遷が日月と光を争うとまで褒め称えた屈原の『離騒』を始めとする文学作品を切り捨て、歴代の儒者・隠者の話も八割がた削除してしまっているのは全くおかしなことだ。また劉邦が白蛇を斬ったような怪奇現象は歴史著述に必要なもので、それを『資治通鑑』が載せないのはおかしい」と批判して司馬光に伝えたが、司馬光は助手に「なかなか良い質問だ」と返答させただけで意に介さなかった。ただ、劉邦の白蛇を斬る話のみ、後に復活させている[14]

また司馬光は、当時の正史が制度史・経済史を軽視していたことを非常に嘆いており、資治通鑑では制度の変遷、経済史、天文、地理といった百科全書的な記載も多くしている[15]。注を行った胡三省は司馬光の百科全書的な記載に驚嘆し、「温公の通鑑を作るや、特にまた治乱の跡を紀すのみならんや。礼楽・暦数・天文・地理に至っては尤も其の詳を致す。通鑑を読む者は飲河の鼠の如し。各おの其の量を充たすのみ。」[16]と述べている。つまり、黄河にネズミが口をつけて水を飲み、自分が必要な量の水を飲んだら満足して帰るようなものだ、そして河はいつまでも尽きることがないというのである。

本書の作製方法としては、可能な限りの資料を収集し、それを年月日に整理し直して一つの一大資料集(長編とも呼ばれた)を造り上げるという第一段階。次いでその大資料集を下に、司馬光が治世に役立つもののみを択び取り、『資治通鑑』として完成させるという第二段階があった。

このうち、第一段階は司馬光自身が全て行ったのではなく、漢代はその専門家劉?(当時の著名な学者であった劉敞の弟)が、唐代は司馬光の弟子の范祖禹が担当し、最も難関とされた南北朝時代は当時の史学研究の第一人者劉恕が担当した。そのため、当時としては最も優れた歴史編纂の一つとなった。なお劉恕の史料収集は余りに完璧であったため、司馬光はただ出来上がったものを手にするだけで、自分では何もしなくてもよかったと言わしめたほどである。

司馬光はこの書を編纂するに当たって、編年体を取ったことからも、春秋の書法を相当程度意識している。これらは彼の文集に残る諸書の記述や、当時の著名な春秋学者であった劉敞(劉?の兄)への書簡のやり取りなどからも確認することができる。また、考証が必要な資料に関しては、別に『通鑑考異』30巻としてまとめられている。同様に、年表として、『通鑑目録』30巻も用意されている。
受容

北宋時代は『資治通鑑』はそれほど喜ばれず、司馬光が知人に読ませたところ居眠りを始めたほどだったという。また、前述のような革新性を持つ史書だったために、司馬光のやり方を快く思わない者たちが批判をしており、司馬光の政敵だった王安石一派の新法党は「『資治通鑑』は政府批判の書だ」と言い出し、まるで認めていなかった。司馬光没後に版木を叩き壊そうとする薛昂・林自なる者さえもいたが、皇帝の序文があったので版木は破壊を免れたという[17]

南宋になると知識人の間で『資治通鑑』は読まれるようになったが、朱熹は正統について問題があると『資治通鑑』を批判している[18]

むしろ金・元のような征服王朝では『資治通鑑』が大変喜ばれ、金が北宋の首都を占領したときに版木を持ち帰り、金の世宗や元の世祖クビライは『資治通鑑』愛読者であった[19]。金の世宗は「近ごろ『資治通鑑』を読むと、中国歴代の興亡が実によく分かり、非常に勉強になる。古の良史より勝っている」と絶賛した。またクビライは賈居貞という学者に北方遠征中のパオの中で『資治通鑑』を講義させており、後に『資治通鑑』の略本(通鑑節要)をモンゴル語に翻訳させ、モンゴル族の優秀な青年を集めて『通鑑節要』をモンゴル語で学ばせたという[20]
資治通鑑の影響を受けた史書

本書が以後の中国史学界に与えた影響は非常に大きく、同じく編年体の歴史書や、編年体の欠点を補うものとしての紀事本末体の歴史書が相次いで編纂された[21]

これら資治通鑑の影響を受けた史書には大きく分けて2つの系統がある。まず、朱熹の『資治通鑑綱目(中国語版)』のほか、袁枢『通鑑紀事本末』のようなダイジェスト本(略本)の系統である。通鑑は浩瀚であるために手頃なダイジェスト版が南宋の頃から『陸状元通鑑』など複数存在していた[22]この『資治通鑑綱目』系の本は「綱鑑」(こうかん)と呼ばれ、巷の講釈師などがよく種本として用いた。したがって『三国志演義』・『隋唐演義』などの演義小説ではしばしば資治通鑑の略本「綱鑑」や、あるいは『資治通鑑』本編が引用されることがあると、上田望は指摘している[23]

また、『十八史略』も正史と資治通鑑をミックスしたダイジェスト本の一つである[24]。『十八史略』を増補した編集者の劉?は『資治通鑑』の略本を出版していた業者の一人であったことも上田は指摘した[23]

もう一つの系統は李Z『続資治通鑑長編』・畢?続資治通鑑』・黄以周・秦?業(中国語版)等『続資治通鑑長編拾補』など、『資治通鑑』の続編を意図し、『資治通鑑』で書かれた前の時代、もしくはその後の時代の歴史を通鑑にならって書くものである。例えば陳?の『通鑑続編』は、太古の歴史と王朝の歴史を編年体で書いている[25]

後世になると2つの系統をまとめた『通鑑輯覧』・『靖献遺言』のような史書も書かれるに至った。『通鑑輯覧』は清の乾隆帝の勅撰で、歴史学者の趙翼らに命じて通鑑に加えて太古から明滅亡までの歴史を資治通鑑及びその続編の書を元にまとめ、細かい訓詁・典故・考証を付したものである[26]

『通鑑輯覧』を元に、更に『通典』などを元に制度面を補ったのが那珂通世の『支那通史』である。ただし『支那通史』は宋滅亡で終わっている[27]。『靖献遺言』は『資治通鑑』を元にしているが綱鑑系史書・正史でかなり補っており顔真卿文天祥ら忠臣七名の事績を述べたもので、日本の幕末の志士はこぞって読んでいる[28]

また、宋末初の胡三省による本書に対する注釈(『資治通鑑音注』、略して「胡注」という)は、記事を補正した上に、さらに異なった史料をも提供しており、本書を読む上での必読の文献であり、『資治通鑑』に付された多くの注の中でも、もっとも優れたものである[29]
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全294巻。

周紀(5巻)

紀(3巻)

紀(60巻)

紀(10巻)


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