賀田金三郎
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同社の経営から台湾総督府の信任を得、1899年5月に土木建築請負業「賀田組」を設立して独立し、台湾各地で用達、建築業、運送業、鉄道建設や港湾事業を行うなど、日露戦争中に陸海軍用達業に従事して巨利を収めた[1][2][7]。さらに台湾総督府から2万町歩の土地の払い下げを受け、「賀田村」という農場村も造成して農場経営にも乗り出し、後には台湾銀行台湾製糖などの大企業の創立に関与するほど台湾財界人としての成功を収めた[7]

1907年(明治40年)4月に大倉組皮革製造所、桜組、東京製皮、今宮製革所が合併して日本皮革(現在のニッピ)が設立されると、甥の田畑健造とともに、取締役に名を連ねる[9]。1910年(明治43年)7月、甥の田畑が福宝堂を設立したが、この本社所在地は、賀田が所長を務めた製架機械製造所の土地であった[10]

1910年の日韓併合後は、朝鮮半島も事業領域とした[1]。賀田は台湾の砂糖を朝鮮で販売しようと1907年頃から朝鮮に企業活動の重点を置き、鉱山開発・皮革業・精米・電気・鉄道・造林などの多様な投資活動を行なった[7]

1907年ごろから相場界に入り、1911年に米の買い占めで巨利を得る[11]。1912年(明治45年)武蔵電気鉄道東京急行電鉄の取締役就任[12][13]。1914年発行の『当世名士縮尻り帳』によると、米相場で巨富を得るも2年続きの不景気により財産差し押さえとなり、麻布の宏大な邸宅も担保に入ったという[14]

1922年(大正11年)7月4日、死去した[1][2]。満64歳没。朝鮮の事業は婿養子の賀田直治が継いだ[7]。長男の以武(1894年生)は、東京高等師範学校附属中学校を経て早稲田大学商科を卒業、台湾総督を務めた伯爵佐久間左馬太の孫娘を妻とし、賀田組代表社員、萩製絲代表取締役のほか、関連会社の役員を務めた[15]
脚注[脚注の使い方]^ a b c d e f g h 賀田金三郎、朝日日本歴史人物事典、コトバンク、2012年5月18日閲覧。
^ a b c d e f g 賀田金三郎、デジタル版 日本人名大辞典+Plus、コトバンク、2012年5月18日閲覧。
^ 田中貞吉とペルー移民事業 移民送り出しまでの前史の分析大島正裕、海外移住資料館研究紀要12号
^明治44年の米買い占め戦(3)賀田金、根津理事長を味方につける 売り方の苦戦は必至市場経済研究所(2016.02.29)
^ 賀田金三郎氏『財界名士失敗談. 上巻』朝比奈知泉 (碌堂) 編 (毎夕新聞社, 1909)
^ 豊かな大自然!実は日本と因縁深いの台湾花蓮おすすめ観光スポット7選タビナカマガジン、2017.02.17
^ a b c d e 金明洙, 「植民地期における在朝日本人の企業経営」『経営史学』 2009年 44巻 3号 p.3_3-3_30, 経営史学会, doi:10.5029/bhsj.44.3_3
^ 小野田セメント製造(株)『小野田セメント製造株式会社創業五十年史』(1931.09)
^ 『開国五十年史』、p.274.
^ 『墨田區史』。
^明治44年の米買い占め戦(2)買い占めの首魁は政商賀田金 大きかった米穀取引所の存在市場経済研究所(2016.02.23)
^ 東京横浜電鉄(株)『東京横浜電鉄沿革史』(1943.03)
^ 東京急行電鉄(株)『東京急行電鉄50年史』(1973.04)
^ 賀田金三郎の差押『当世名士縮尻り帳』節穴窺之助、1914
^賀田以武 (男性)『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]


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