貴族
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他にもイスラム教における聖人と呼ばれる人物の子孫も存在しており、実質的な貴族となっている家系も多い。

アラビア半島では、ワッハーブ王国からサウジアラビアまで歴史的に王家であるサウード家や、国教であるワッハーブ派の始祖であるワッハーブ家、有力豪族スデイリー家の部族長などが事実上の貴族と見なされている。サウード家は一夫多妻制により鼠算式に増えているため、王族二万人とも言われる大所帯になっている。

ワッハーブ家は建前の上では国章にも書かれている双剣の片方であり、地位としてはサウード家よりも上であるが、実態としての権力に乏しく、江戸時代の日本における天皇のように形式上の地位ばかり高くて実権の乏しい立場に置かれている。元々のサウード家はワッハーブ派の守護者であり、日本における征夷大将軍のような立場であったが、現在では聖モスクの守護者を名乗っており、より広義の意味でのイスラムの守護者を自認している。

都市部は王族から任命される知事(アミール)が支配者となっているが、地方は今でも部族社会であり、部族長が実質的な地方領主となっている。サウジアラビアの法律では部族長は自分の部族の構成員に対して適用される部族習慣法(アーダ)を制定する権限を認められているなど強い自治権を持っている。
アジア
中国

中国史における貴族は魏晋南北朝時代から末期(220年 - 907年)にまで存在した血統を基幹として政治的権力を占有した存在を指す。貴族という語は日本の中国史学界において前述の存在を指す言葉であり、中国の中国史学界では士族の語が使われる。しかし貴族・士族、これらの両者の定義・概念は全く別のものであり、日本・中国双方の隔たりは大きい。詳細は「貴族 (中国)」を参照
朝鮮

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両班」を参照
琉球

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琉球の位階」を参照
日本「公家」、「平安貴族」、「軍事貴族」、「皇族」、「華族」、「朝鮮貴族」、および「王公族」も参照

日本における貴族の歴史を概観すると、4世紀頃に始まるヤマト王権期の大王(おおきみ)豪族層に由来する皇族(皇親)と古代貴族がまず形成された。その後、平安時代前期(9世紀初め)には、古代貴族に代わって、古代貴族を母体とする藤原氏橘氏天皇の末裔を祖とする源氏平氏が上級貴族層を占めていった(4氏をまとめて「源平藤橘」と呼ぶ)とされるが、実際には自分の先祖の伝承を失った古代貴族がこれら新興の上流貴族の系譜を仮冒した例も見られる[9]中世前期(12世紀後半から13世紀)、平安時代末期から鎌倉時代の初めにかけて、地方に経済的・軍事的基盤を持つ下級貴族や地方豪族を母体とする武家が現れ、京都の朝廷で天皇に仕える従来の貴族からは公家が形成された。中世後期以降、天皇・皇族と公家は経済的・政治的実権を喪失したが、伝統的・文化的・宗教的権威を保ち、ときに政治・軍事にも隠然たる影響力を及ぼした。明治維新期(19世紀後半)には、大日本帝国憲法によって公家、上級武家である大名、軍事・政治・産業などで勲功を挙げた者に爵位を与えて華族とし、西欧の貴族制度を参照して新たな貴族を制度化した。20世紀半ば、第二次世界大戦後に社会制度は大きな変革を受け、新たに制定された日本国憲法は「華族その他の貴族の制度」を否認した(第14条第2項)。これにより華族制度は廃止され、皇族を除く貴族は日本から消滅した。
古代

日本における貴族の登場は7世紀後半から8世紀初頭の律令制成立期に求められる。このとき貴族の母体となったのは、古来より大王に使えた伴造や地方の国造県主といった豪族階層であった。7世紀以前の倭国(日本)では(うじ)と呼ばれる同族集団が形成されていたが、その氏集団を統率する族長たちが豪族階層を構成していた。当時の地方豪族は大和王権に従いつつも一定の自治を認められていたが、7世紀後半の天智・天武期以降、天皇(大王)への権力集中化が急速に進み、中央豪族らは官人として、地方の国造や県主は郡司・郡領へと再編成されていった。

大宝元年(701年)に制定された大宝律令のもとで、旧来の豪族は位階に応じて序列化された。三位以上を「貴」、四・五位を「通貴」という。「貴」は貴人を意味し、「通貴」は貴人に通じる階層を意味した。これら「貴」、「通貴」、及びその一族を貴族と呼んでいる。「貴」と「通貴」では与えられた特権に差があったため、「貴」は上流貴族、「通貴」は中流・下流貴族に位置づけられている。貴族は経済的特権として国家から多大な収入が与えられていた。五位以上には位田、四・五位には位禄、三位以上には位封、さらに、太政大臣・左右大臣・大納言に任官すると職田職封が給与された。このほか、位分資人・職分資人なども与えられた。これらの収入は三位以上と四・五位の間に大きな格差が設定されており、さらに大きな格差が五位以上と六位以下の間に設けられていた。また、身分特権として、位階に応じて子孫が位階を得る蔭位制度があった。蔭位により、貴族は子孫へ各種特権を世襲することが容易となっていた。

日本の律令制の特徴は貴族の合議機関である太政官が政治決定の枢要とされた点にある。唐律令では天子直属の中書省と貴族代表の門下省とが政治決定の場において拮抗していたが、日本律令では天皇直属の中務省は太政官の下に置かれていた。

太政官において国政審議に参与する貴族らを議政官(公卿)というが、律令制が開始した8世紀の代表的な議政官氏族を挙げると、安倍氏大伴氏藤原氏多治比氏紀氏巨勢氏石川氏らであった。慣例的に各氏から議政官となるのは1人だけとされており、議政官は氏族代表者会議としての性格を有していた。ところが、8世紀30年代ごろから藤原氏議政官が複数現れるようになると、藤原氏議政官が増加の一途をたどるのに対し、他氏族の議政官は次第に減少していった。

貴族社会全体でも藤原氏の増加と他氏族の没落が見られた。こうした傾向に拍車がかかったのは8世紀末-9世紀初頭の時期とされている。歴史学者の義江明子は、氏が持っていた在地性・両属性がこの時期に失われ、氏の再編が起こったとする[10]。宇根俊範は、桓武天皇は従来と異なる方針で諸氏族の改賜姓を行い、このため、貴族社会における各氏族の序列が大きく変化し、源平藤橘を頂点とする新たな貴族社会秩序が生じたとする[11]

平安時代初期の議政官をみると、藤原氏のほか、源氏橘氏清原氏菅原氏などのように、奈良時代にはみられなかった氏族が急速に台頭していた。880年ごろには議政官氏族の多様性が失われ、藤原氏・源氏が議政官のほとんどを占めるようになった。藤原氏は、摂政関白の地位を獲得し、それを世襲することに成功した。以降、10世紀から11世紀にかけて、藤原氏嫡流(摂関家)は、天皇の外戚、すなわち、身内として代々摂関となって貴族社会の頂点に位置し、10世紀から11世紀にかけて摂関政治と呼ばれる政治形態を布いた。ただし、通俗的な理解とは異なり、摂関家は専横的に権力を振るったわけではない。摂関といえど独裁的な国政決定を行なうことはできず、重要な国政決定はすべて陣定などの公卿会議を通じて行なわれていたのである。

9世紀後半から10世紀にかけての時期に上流貴族が藤原氏・源氏にほぼ限定されると、他氏族は中下流貴族として存続する道を模索し始めた。10世紀初頭、王朝国家体制への移行に伴い、律令機構や権能を特定者へ請け負わせる官司請負が行なわれ始めたが、機構・権能の請負いに成功した中下流貴族は、その機構・権能を家業と位置づけ、それを世襲する家業の継承を行なうようになった。例えば、武芸・軍事を家業とする下級貴族(地下人)は「兵(つわもの)の家」と呼ばれ、押領・追捕・追討活動に従事する軍事貴族(武家貴族)となり、武家武士)の母体となっている。この官司請負と家業の継承は、11世紀以降、貴族社会に広くみられるようになり、そのため下級貴族は家業の継承や受領職の獲得などにより生き残りを図ったのである。家業の継承を通じて、家産(家の財産)の蓄積が進み、貴族社会に「家」概念が登場することになった。

摂関政治、官司請負、家業の継承が始まった10世紀前半は、その後の貴族社会において最重要事項とされた朝廷儀式・宗教儀式の標準作法が形成された時期でもある。非常に多数の年中行事からなる儀式は細部まで作法・様式が決められており、儀式を滞りなく執り行うため、『西宮記』、『北山抄』などの儀式書も作られた。


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