貴族
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一部では現代まで続いているヨーロッパでの貴族制度は古代の影響を受けつつも、中世に形成された部分が大きい[1]。特に封建制専制君主の普及はヨーロッパ貴族の性質に大きな影響を及ぼした[6]公爵伯爵といった中世時代に一般化した新たな貴族称号は、当初は君主から特定地域の支配権を付与される代わりに、防衛や戦力提供の義務を負う軍務制度として設置されたものだった。制度の背景には古代ローマ時代におけるドゥクス・コメスなどの地方司令官職や恩貸地制、及び古代ゲルマニアにおける従士制度などがあった。よって当初は一代限りの任期制である場合も多かったが、集権的政府の不在によって次第に世襲化された。また、こうした戦士貴族であると同時に、家族ないし一族の者が高位の聖職を握り、聖界貴族をなした[7]

地域別に見ればイベリア半島カスティーリャ及び東欧ポーランド・リトアニアにおいて貴族の割合が多く、他の地域が多くて2%程度であるのに対して約10%が貴族階級で占められていた。またハンガリーでも5%程度が貴族階級であり、ヨーロッパ・キリスト教圏とは異なる異文化圏と接していた地域に顕著な現象といえる。理由としては異文化圏との戦いで軍事階級に対する需要が多く、また報酬として用意できる領地も獲得できた為であると考えられている[8]

当初は地方の領主階級であった貴族も絶対主義王政の時代には官僚化し、ブルジョワ化を遂げ、官吏や軍人の供給源となった[1]中世後期から近世軍事革命が起きると軍としての貴族制度は時代遅れとなった。イタリア・ルネッサンスを迎えて商工業が成長すると経済面でも貴族の衰退は続き、次第に社会的影響力を失っていった。近代に産業革命が発生すると商工業の発展は更に続き、入れ替わるように都市部の商人階級が資本家として社会経済の中枢を成す立場にまでなり、貴族階級は財力のある家と婚姻を結ぶ事で家柄を維持しようとした。

ただし、近代以降、貴族の地位や階級は次第に栄誉称号化していった[1]。一方で近代時点では未だ貴族の特権はその強大さを残し、影響力を社会に与え続けていた。一例を挙げれば議会制へと移行していたイギリスでは民衆から選出される庶民院とは別に、貴族のみで構成される貴族院が存在していた。だが、それもやがて現代に近付くにつれて段階的に影響力を失い、先のイギリスの貴族院も貴族院改革法(英語版)によって大幅に弱体化している。またフランス革命ロシア革命といった貴族制度を否定する大動乱や、二度の世界大戦とその戦後処理も欧州での貴族制度の衰退を後押しした。オーストリアでは、第一次世界大戦後に制定された貴族廃止法(ドイツ語版)によって爵位のみならず「フォン」の名乗りすら禁止されている。現代では貴族制度を維持しているヨーロッパ諸国は(君主制国家の減少もあって)数を減らし、仮に維持されていても形骸化している場合も多い。
用語


ウラデル(英語版)(古貴族)- 家柄が14世紀以前まで遡れる家系

Briefadel(英語版)(証書貴族) - 叙爵書(ドイツ語版)によって貴族となった家系

von und zu - ドイツ系貴族の名称に見られる von と zu のことである。von は英語の of に該当し「出身地の誰々」となる。zu は英語の at に該当し城などの不動産を代々所有する家系で「城などに住む誰々」であることを示している。

イスラム世界

中東イスラム社会では貴人とか高貴な血筋という意味では預言者ムハンマドの子孫はサイイドと呼ばれ尊敬されている。イランの指導者であるホメイニ師、前イラン大統領モハンマド・ハータミーイラク・カーズィマインの名門ムハンマド・バキール・サドルやその遠縁にあたるムクタダー・サドルヨルダンハーシム家モロッコアラウィー朝なども預言者ムハマンドの子孫にあたる。他にもイスラム教における聖人と呼ばれる人物の子孫も存在しており、実質的な貴族となっている家系も多い。

アラビア半島では、ワッハーブ王国からサウジアラビアまで歴史的に王家であるサウード家や、国教であるワッハーブ派の始祖であるワッハーブ家、有力豪族スデイリー家の部族長などが事実上の貴族と見なされている。サウード家は一夫多妻制により鼠算式に増えているため、王族二万人とも言われる大所帯になっている。


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