貴族院_(日本)
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貴族院(きぞくいん、英語: House of Peers)は、大日本帝国憲法下の日本において帝国議会を構成した上院[4]1890年明治23年)11月29日から1947年昭和22年)5月3日まで設置されていた。貴院と略称された。両院制(二院制)である帝国議会の一翼を担い[5]下院にあたる衆議院とは同格の関係にあったが、予算先議権は衆議院が有していた[3]

貴族院令に基づき皇族議員華族議員及び勅任議員によって構成され、解散はなく[3]、議員任期は7年の者と終身任期の者があった[2]。全議員が非公選であるが、有識者が勅任により議員となる制度が存在していた[2]

1947年(昭和22年)5月3日日本国憲法施行により、華族制度と同時に廃止され、国会の上院として参議院(さんぎいん)が設立された。参議院は解散せず、任期6年の3年毎の半数の改選による通常選挙で、総選挙による衆議院議員の選出と同様、全員公選の議員により構成されることになり[4]皇族が議員の職に就くことはなくなり、終身任期制・勅任議員職が廃止された。
概要旧貴族院の銘板(参議院収蔵)

議院や議員の権限などについては、議院法、貴族院令(明治22年勅令第11号)[3]や貴族院規則、その他の法令に定められた。

貴族院議員には、皇族議員、華族議員、勅任議員の別がある。皇族議員、華族議員のうち公爵侯爵議員、勅任議員のうち勅選議員については任期は終身であり、皇族と公侯爵は所定の年齢に達すると自動的に貴族院議員となる(はじめ25歳、後に30歳に改正され、勅許を得て議員辞職や再就任も可能になった[6])。ただし現役軍人たる皇族議員・公侯爵議員は軍人の政治不関与の原則により実際に議員として議事に参加することはなかった[7][8]。勅選議員は功績者・学識者の中から内閣の輔弼に基づき天皇によって任じられ[9]、終身議員の中では唯一定数(125名以内)がある[9]。勅選議員は官僚出身者が多かったため、華族議員と比べると実務型で有能な人材が多く、彼らが貴族院の審議をリードすることが多かった[2]

これに対して、華族議員のうち伯爵子爵男爵議員、勅任議員のうち多額納税議員と帝国学士院会員議員は、いずれも任期7年だった[9]。伯子男爵は同爵者間の連記・記名投票選挙による選出である[10]。多額納税議員も互選によって選出される[9]。いずれも定員数があるので欠員が生じた場合は補選が実施される[9]

なお朝鮮貴族については、朝鮮貴族の爵位で華族貴族になることはできなかったが、勅選議員に任じられるのは、もちろん妨げられない[11]

議員の歳費は議院法に定められた。それぞれ、議長7,500円、副議長4,500円、議員3,000円であった(いずれも1920年(大正9年)の法改正から1947年昭和22年)の法廃止まで、衆議院も同額)。ただし皇族議員や公侯爵議員など終身議員には歳費は支給されなかった[6]

1890年明治23年)開会の第1回通常会から、1946年(昭和21年)開会の第92回通常会まで、議員総数は250名から400名程度で推移した。第92回議会停会当時の議員総数は373名であった。

貴族院は概して非政党主義を取ったため、衆議院の政党政治には厳しく、政府(行政府たる内閣)を窮地に陥れることもあり、独自性を発揮した。戦時下においても貴族院議長も歴任した近衛文麿首相による「新体制運動」の下に解体させられた政党が軍部に迎合していったのに対して総じて冷静であり、絶頂期の東條内閣帝国議会で批判したのも貴族院であった[12]
議員資格貴族院 玉座

貴族院議員の資格は、皇族男子からなる皇族議員、華族(爵位保持者)からなる華族議員、天皇の任命(勅任)による勅任議員の3種に大別された。厳密には、華族議員の資格数は爵位に基づき公爵議員から男爵議員までの5つあり、勅任議員の資格数は時代の変化に合わせて増減した。

1889年(明治22年)の貴族院発足時は8資格の議員で構成された。その後、1925年(大正14年)に勅任の帝国学士院会員議員が創設されて9資格となり、第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)4月には勅任の朝鮮勅選議員および台湾勅選議員が設けられて最大の11資格となったが、終戦直後の1946年(昭和21年)には在職者が全員辞任して皇族議員が消滅し、朝鮮・台湾両勅選議員の規定も廃止されたことで議員資格数は8つに減少、そのまま1947年(昭和22年)の貴族院廃止を迎えた。
皇族議員

満18歳に達した皇太子又は皇太孫と、満20歳に達したその他の皇族男子は自動的に議員となった(貴族院令第2条)。定員は設けられず、歳費も存在しなかった[3]

貴族院規則4条で「皇族ノ議席ハ議員ノ首班ニ置キ其ノ席次ハ宮中ノ列次ニ依ル」となっていた。ただし、「皇族が政争に巻き込まれることは適正ではない」という考えから、皇族は議会で催される式典などに参列したり、傍聴することはあっても、貴族院議員として日常的に議会内に出入することはなく、登院は帝国議会史上、極めて稀であった[注 1]。また、皇族男子は海軍軍人を務めることが常でもあった(皇族軍人)ので、「軍人の政治不関与」の建前からも、出席は適正ではないとされた[3]。ただし、憲政史上で立法府はともかく、行政府である内閣では、その長たる内閣総理大臣皇族東久邇宮稔彦王皇籍離脱後:東久邇稔彦)が就任した事例はある(歴代日本の首相で最短任期記録)。

第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)5月23日、当時在職の皇族議員が全員辞任した後、同年7月3日から10月8日まで賀陽宮治憲王のみがこれを務めたのを最後として貴族院から消滅した[13]
華族議員

華族議員は男性華族から選任された。爵位によって、選任方法、任期その他の定めが異なった。なお、朝鮮貴族朝鮮貴族令5条により華族と同一の礼遇を受ける者とされたが、爵位による華族議員となる資格は与えられず、別途勅任議員として貴族院議員に列した場合があった。
公爵議員・侯爵議員

満25歳に達した公爵侯爵は自動的に議員となった[3](貴族院令第3条)。定員はなく、歳費もなかった。

1925年(大正14年)の貴族院令改正(大正14年勅令第174号)により、年齢が満30歳に引き上げられた[3]


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