貴族院_(日本)
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議員資格貴族院 玉座

貴族院議員の資格は、皇族男子からなる皇族議員、華族(爵位保持者)からなる華族議員、天皇の任命(勅任)による勅任議員の3種に大別された。厳密には、華族議員の資格数は爵位に基づき公爵議員から男爵議員までの5つあり、勅任議員の資格数は時代の変化に合わせて増減した。

1889年(明治22年)の貴族院発足時は8資格の議員で構成された。その後、1925年(大正14年)に勅任の帝国学士院会員議員が創設されて9資格となり、第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)4月には勅任の朝鮮勅選議員および台湾勅選議員が設けられて最大の11資格となったが、終戦直後の1946年(昭和21年)には在職者が全員辞任して皇族議員が消滅し、朝鮮・台湾両勅選議員の規定も廃止されたことで議員資格数は8つに減少、そのまま1947年(昭和22年)の貴族院廃止を迎えた。
皇族議員

満18歳に達した皇太子又は皇太孫と、満20歳に達したその他の皇族男子は自動的に議員となった(貴族院令第2条)。定員は設けられず、歳費も存在しなかった[3]

貴族院規則4条で「皇族ノ議席ハ議員ノ首班ニ置キ其ノ席次ハ宮中ノ列次ニ依ル」となっていた。ただし、「皇族が政争に巻き込まれることは適正ではない」という考えから、皇族は議会で催される式典などに参列したり、傍聴することはあっても、貴族院議員として日常的に議会内に出入することはなく、登院は帝国議会史上、極めて稀であった[注 1]。また、皇族男子は海軍軍人を務めることが常でもあった(皇族軍人)ので、「軍人の政治不関与」の建前からも、出席は適正ではないとされた[3]。ただし、憲政史上で立法府はともかく、行政府である内閣では、その長たる内閣総理大臣皇族東久邇宮稔彦王皇籍離脱後:東久邇稔彦)が就任した事例はある(歴代日本の首相で最短任期記録)。

第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)5月23日、当時在職の皇族議員が全員辞任した後、同年7月3日から10月8日まで賀陽宮治憲王のみがこれを務めたのを最後として貴族院から消滅した[13]
華族議員

華族議員は男性華族から選任された。爵位によって、選任方法、任期その他の定めが異なった。なお、朝鮮貴族朝鮮貴族令5条により華族と同一の礼遇を受ける者とされたが、爵位による華族議員となる資格は与えられず、別途勅任議員として貴族院議員に列した場合があった。
公爵議員・侯爵議員

満25歳に達した公爵侯爵は自動的に議員となった[3](貴族院令第3条)。定員はなく、歳費もなかった。

1925年(大正14年)の貴族院令改正(大正14年勅令第174号)により、年齢が満30歳に引き上げられた[3]。また、勅許を得て辞職すること及びその後勅命により再び議員となることが認められた。

公侯爵議員も現役軍人たる議員は出席しない慣例になっていた[2]
伯爵議員・子爵議員・男爵議員

満25歳に達した伯爵子爵男爵に叙されている者の同じ爵位の華族による互選で選ばれた(貴族院令第4条第1項)。任期は7年。互選の方法などについては貴族院伯子男爵議員選挙規則(明治22年勅令第78号)に定められた[2]。選挙は完全連記制であった[14]。また、委託投票も可能だった[15]。また、「投票ハ被選人ノ爵姓名ヲ列記シ次ニ自己ノ爵姓名ヲ記載スヘシ」と記名投票であった。選挙は同爵者間の自治に委ねられており、費用も自己負担した[2]

1890年(明治23年)7月10日、第1回貴族院伯子男爵議員互選選挙が行われた。貴族院令第4条第2項により、伯爵20人以内、子爵と男爵は各73人以内とされ、各爵の議員の定数は各爵位を有する者の総数の5分の1を超えない範囲とされた(第1回帝国議会において伯爵14名、子爵70名、男爵20名。第21回帝国議会において伯爵17名、子爵70名、男爵56名)。

1905年(明治38年)の貴族院令改正(明治38年勅令第58号)により、伯子男爵議員を通して定数143名とし、各爵位を有する者の総数に比例して配分することとなった。これは、日清戦争日露戦争を経て、華族(戦功華族・新華族)の数が急増したことによる議員数の増加を抑えるための措置である。

1909年(明治42年)の貴族院令改正(明治42年勅令第92号)により、伯爵17名、子爵70名、男爵63名とされた。

1918年(大正7年)の貴族院令改正(大正7年勅令第22号)により、伯爵20名、子爵73名、男爵73名と増員された。

1925年(大正14年)の貴族院令改正(大正14年勅令第174号)により、年齢は満30歳に引き上げられ、定数は150名(伯爵18名、子爵66名、男爵66名)とされた。以後、貴族院廃止まで定数変更はない。

なお、伯爵議員・子爵議員・男爵議員として互選された議員が陞爵(爵位の昇進)した場合、その地位が保たれるかどうかについては初期の議会において資格訴訟に発展し、爵位の変動があった場合は前の互選による地位は失われることが確定した。伯爵議員が侯爵になれば互選によることなく貴族院議員となることから、問題になったのは子爵議員・男爵議員であり、具体的な例としては、子爵議員であった島津忠亮(旧佐土原藩主島津家当主)が、1891年(明治24年)4月23日に父・忠寛が幕末王事に功があったとして伯爵に陞爵した際、資格審査の申し立てがあり、資格消滅とされた事件がある[16]

伯爵・子爵・男爵議員は同爵の者による互選とはいえ、選挙がある以上選挙運動もまた存在した。こうした中、1892年(明治25年)発足した「尚友会」は、有爵者・貴族院議員の親睦会を謳っていたが、実質は研究会の選挙運動団体だった。完全連記制であるため、細かい票の割り振りは必要なく、また第一勢力が圧倒的多数を占めることのできる多数代表制であった。そのため、いち早く選挙運動団体を組織した尚友会は、協力した第2次桂内閣桂太郎首相、大日本帝国憲法下で最長任期を記録した首相経験者)の後押しもあって、やがて伯爵・子爵・男爵議員の大半を牛耳る存在になった。
伯子男爵議員選挙一覧

第1回伯子男爵議員選挙1890年明治23年)7月10日投票
第2回伯子男爵議員選挙1897年(明治30年)7月10日投票
第3回伯子男爵議員選挙1904年(明治37年)7月10日投票
第4回伯子男爵議員選挙1911年(明治44年)7月10日投票
第5回伯子男爵議員選挙1918年大正7年)7月10日投票
第6回伯子男爵議員選挙1925年(大正14年)7月10日投票
第7回伯子男爵議員選挙1932年昭和7年)7月10日投票
第8回伯子男爵議員選挙1939年(昭和14年)7月10日投票

第9回伯子男爵議員選挙は、本来ならば1946年(昭和21年)7月10日に投票が実施されるはずだった。しかし同年5月に召集された第90回帝国議会ですでに日本国憲法の審議が始まっており、この時点で貴族院はせいぜい向う1年以内に廃止となることは確定されていた。そのため敢えてこの第9回選挙は実施せず、現職の伯子男爵議員の任期を延長することで対応することになった。そこで先ず「昭和21年7月勅令351号」でこれらの議員の任期を7ヶ月延長して翌1947年(昭和22年)2月10日までとし、さらに「昭和21年12月勅令612号」でこれを3ヶ月弱再延長して日本国憲法施行日の前日である1947年(昭和22年)5月2日までとした。

同時期に多額納税者議員と帝国学士院会員議員に対しても同様の任期延長措置がとられている。
勅任議員
勅選議員

国家に勲労ある、または学識ある30歳以上の男子の中から、内閣の輔弼により勅任された(貴族院令第5条)[2]。勅選議員は終身任期だった(貴族院令第5条)。

1890年明治23年)の帝国議会創設時には61名が選出された(元老院議官27名、各省官吏10名、民間人9名、帝国大学代表6名、宮中顧問官6名、内閣法制局3名)。

新しい勅選議員は実質的にその時々の内閣が独自の判断にもとづいて選任したが、多くの場合は退陣の決まった内閣がその最後の数日間に候補者を奏薦して勅任を仰いだ。1926年(昭和元年)から1947年(昭和22年)までに勅選議員に勅任された者は170名を数えるが、直前の肩書きの内訳は官僚39%、財界人25%、大臣16%、代議士8%、大学教授4%、軍人3%となっている。官僚出身者が多かったため、華族議員と比べると実務型で有能な人材が多く、彼らが貴族院をリードすることが多かった[2]

1905年(明治38年)以後は勅選議員の定員が125名以内に固定された。また当初は勅選議員と多額納税者議員の総数は華族議員の総数以下と定められていた(貴族院令第7条)。この規定は1925年(大正14年)に廃止されたものの、華族議員の総数が非華族議員の総数を下回ることは結局その後もなかった。


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