貴族院_(日本)
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この規定は1925年(大正14年)に廃止されたものの、華族議員の総数が非華族議員の総数を下回ることは結局その後もなかった。
帝国学士院会員議員

1925年(大正14年)に新設された。帝国学士院会員で30歳以上の男子から互選の上で勅任された。任期は7年。定員は4名(帝国学士院は、分野ごとに2部に分けられたため、各部ごとに2名ずつ選出された)。互選の方法その他は貴族院帝国学士院会員議員互選規則(大正14年勅令第233号)に定められた[2]。「投票用紙ニハ選挙人ノ氏名ヲ記載スルコトヲ得ス」と無記名投票であった。
多額納税者議員

土地あるいは工業・商業につき多額の直接国税[注 2]を納める30歳以上の者の中から互選の上で勅任された(貴族院令第6条)。任期は7年。互選の方法その他は、貴族院多額納税者議員互選規則(大正14年勅令第234号)に定められた[17]。貴族院令第六条ノ議員選挙ニ付衆議院議員選挙法中罰則ノ規定準用ニ関スル法律(大正14年法律第48号)により、多額納税者議員については衆議院議員選挙法の罰則規定が準用された。

当初は各府県ごとに直接国税納付者15名より1名が互選され、北海道庁と沖縄県は対象外とされたので定員は45名であった。1918年(大正7年)に北海道・沖縄からも選出されることになり、1925年(大正14年)には庁府県ごとに多額納付者100名につき1名または200名につき2名に改められて定員は66人以内となった[18]。当初は記名投票だったが、1925年(大正14年)に秘密投票に改められた。また、単記投票制だった。

1944年(昭和19年)には樺太庁からも1名選出されることになり、定員67人以内と改められたが、敗戦による樺太喪失によって一度も選出は行われなかった。1946年(昭和21年)6月の貴族院令の一部を改正する勅令案が可決されたことで、樺太出身の多額納税者議員の根拠法は無くなった(一方で沖縄の実効支配を喪失したとはいえ、沖縄県出身の多額納税者議員の根拠法は貴族院廃止の1947年(昭和22年)5月まで維持された)。

彼らの政治活動は微弱だったが、金持ち議員として批判に晒されやすかった[19]
朝鮮勅選議員・台湾勅選議員

外地朝鮮または台湾に在住する満30歳以上の男子にして名望ある者より特に勅任された[注 3]。任期は7年。定員は両方合わせて10名以内[19]

1945年(昭和20年)4月に創設されたが、戦争末期のためほとんど機能しなかった。翌1946年(昭和21年)5月16日に召集された第90回帝国議会(臨時会)が6月20日に開会され、名簿上は9人の外地議員(朝鮮人議員6人・台湾人議員3人)が確認されている。6月25日に政府が朝鮮・台湾からの勅任議員に関する規定を削除する貴族院令改正勅令案を貴族院に提出し、6月29日に本会議で勅令案は可決され、7月9日の本会議で9人の外地議員の資格が7月4日付けで消滅したことが議長から報告された。

朝鮮勅選議員宋鍾憲(野田鍾憲/伯爵)李埼鎔(子爵)尹致昊(伊東致昊)[注 4]金明濬(金田明)
韓相龍朴相駿(朴澤相駿)[注 5]朴重陽(朴忠重陽)
台湾勅選議員許丙簡朗山(緑野竹二郎)林献堂

議長・副議長、仮議長詳細は「貴族院議長 (日本)」を参照
歴史貴族院と明治天皇(1890年(明治23年))1936年昭和11年)、貴族院本会議にて貴族院議長近衛文麿が勅語奉答文を朗読

伊藤博文天皇を中心とした君主制を維持するためにも、天皇を補佐する世襲貴族(華族)の必要性があると認識していた。したがって、選挙による選出である衆議院とは対照的に、貴族院は世襲貴族をその中心に据えた。河野敏鎌は議員の地位を世襲とせず、華族による互選を主張したが、伊藤は「今世襲議員を貴族院より除くは取も直さず世襲貴族を廃するに同じ」と拒絶した。ただし、伯爵以下の貴族は数が多く、全員を議員にすることはできなかったため、同じ爵位の華族による互選となった。

貴族院規則は、草案の段階では議長が決めた議事日程の変更について議員が動議を提起する権利を認めていたが、お雇い外国人英国人法学者ピゴット伊藤博文にした意見などにより、同権利は削除された[21]

貴族院関係法令の起草は金子堅太郎が担当した。金子は、当初、「元老院」と仮称していたが、伊藤博文は外国の元老院は選挙による選出だから今回の議院とは性質が異なると否定し、その結果「貴族院」に決定した。これは貴族中心の議院であることを積極的に表現し、皇室の藩屏として純粋な君主主義の立場を取り、民主主義に対抗する役割を期待されていた。また、当初の伊藤は政党内閣は事実上主権(国体)が天皇から政党に移るから認められないと考えていた[注 6]。そこで、貴族院は衆議院の政党勢力と対抗する存在と位置付けられた。

第二次世界大戦が開始される前の昭和初期にも婦人参政権の導入、労働組合の容認、帝国大学の増設などの法案が議会に提出され、衆議院では可決されているが、こうした「進歩的内容」の法案は貴族院が否決することがしばしばあった。同様に普通選挙法も否決される可能性があったが、こちらは治安維持法とのセットにする事により可決した。

貴族院は保守的であるが、内閣に対してもある程度の自立性を持ち、衆議院とその地位を競った結果、政権を幾度となく窮地に陥れてもいる。政権が政党に妥協した時には反政党の立場から政権と対立することもあった。1900年(明治33年)、伊藤の増税案に対して、貴族院は政友会の党利党略を理由にこれを否決した。手を焼いた伊藤は明治天皇に貴族院が法案成立に協力するよう求める勅語を出させ、従わせたことがある(貴族院はその性質上、勅語には従わざるを得ない)。

大正デモクラシーの時代には政治運営において衆議院がある程度の力を持ち、貴族院の威信は相対的にではあるが低下した。貴族院は枢密院とともにしばしば批判にさらされ、その改革案が常に論点となっていた[2]

1925年(大正14年)9月18日、改修中の貴族院庁舎から出火。軒続きの衆議院にも延焼した[22]。焼失した議事堂の図面は大蔵省に保管されていたことから、無傷であった基礎部分の上に同規模の議事堂を立てることが同年 9月19日までに決定[23]。同年中に工事は完成した。

第二次世界大戦後、日本国憲法の審議にも参加した。最末期には公職追放により貴族院でも多数の議員が追放されており(戦犯となったり爵位を返上したりした議員もいた)、華族議員は補充されたものの、院の廃止を控えて影響力は低下し、審議では主に学識者を中心とした勅任議員が存在感を見せた。

自らの存在を否定することになる日本国憲法の審議では、下手に否決して天皇制廃止GHQに持ち出される事態を恐れたため、次善の策として消極的な賛成論が大勢を占めた。なお、天皇の権限を強める修正案が出され、GHQへの根回しも済ませていたともいわれたが、修正案は否決された。

研究会所属の多額納税議員である秋田三一1946年(昭和21年)8月30日の貴族院本会議で、過去に政府攻撃を行ったのは第4次伊藤内閣伊藤博文首相)の増税案反対、シーメンス事件の発覚に伴う第1次山本内閣山本権兵衛内閣)弾劾、田中義一内閣田中義一首相)における水野文相優諚問題批判など数度に留まると貴族院の活動を統括している[24]

貴族院は、日本国憲法施行を控えた1947年(昭和22年)3月31日の第92回帝国議会本会議の最後に、徳川家正議長の以下の言葉をもって締めくくられ、その活動を全て終えた。…顧みれば明治二十三年十一月二十九日大日本帝国憲法施行以來茲に五十有七年、其の間、我が貴族院は慎重、練熟、耐久の府として大いに国運の進展に貢献し、或時は憲政擁護の為、将又綱紀粛正の為に尽したことも一再に止まりませぬ、今や追懐感慨殊に深く、而も本日滞りなく貴族院の議事を終り得ましたことは、諸君と共に欣慶に堪えませぬと同時に、明治、大正、昭和の三代に於ける先輩議員諸公の御功労を偲び、又現議員諸君多大の御努力に対し深甚の敬意を表したいと存じます、尚諸君に於かせられましては、此の上とも愈愈御加餐の上、我が日本国の再建、世界恒久平和の確保に向って、一般の御努力あらんことを切望して已みませぬ[25]


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