貴族院_(日本)
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これは、日清戦争日露戦争を経て、華族(戦功華族・新華族)の数が急増したことによる議員数の増加を抑えるための措置である。

1909年(明治42年)の貴族院令改正(明治42年勅令第92号)により、伯爵17名、子爵70名、男爵63名とされた。

1918年(大正7年)の貴族院令改正(大正7年勅令第22号)により、伯爵20名、子爵73名、男爵73名と増員された。

1925年(大正14年)の貴族院令改正(大正14年勅令第174号)により、年齢は満30歳に引き上げられ、定数は150名(伯爵18名、子爵66名、男爵66名)とされた。以後、貴族院廃止まで定数変更はない。

なお、伯爵議員・子爵議員・男爵議員として互選された議員が陞爵(爵位の昇進)した場合、その地位が保たれるかどうかについては初期の議会において資格訴訟に発展し、爵位の変動があった場合は前の互選による地位は失われることが確定した。伯爵議員が侯爵になれば互選によることなく貴族院議員となることから、問題になったのは子爵議員・男爵議員であり、具体的な例としては、子爵議員であった島津忠亮(旧佐土原藩主島津家当主)が、1891年(明治24年)4月23日に父・忠寛が幕末王事に功があったとして伯爵に陞爵した際、資格審査の申し立てがあり、資格消滅とされた事件がある[16]

伯爵・子爵・男爵議員は同爵の者による互選とはいえ、選挙がある以上選挙運動もまた存在した。こうした中、1892年(明治25年)発足した「尚友会」は、有爵者・貴族院議員の親睦会を謳っていたが、実質は研究会の選挙運動団体だった。完全連記制であるため、細かい票の割り振りは必要なく、また第一勢力が圧倒的多数を占めることのできる多数代表制であった。そのため、いち早く選挙運動団体を組織した尚友会は、協力した第2次桂内閣桂太郎首相、大日本帝国憲法下で最長任期を記録した首相経験者)の後押しもあって、やがて伯爵・子爵・男爵議員の大半を牛耳る存在になった。
伯子男爵議員選挙一覧

第1回伯子男爵議員選挙1890年明治23年)7月10日投票
第2回伯子男爵議員選挙1897年(明治30年)7月10日投票
第3回伯子男爵議員選挙1904年(明治37年)7月10日投票
第4回伯子男爵議員選挙1911年(明治44年)7月10日投票
第5回伯子男爵議員選挙1918年大正7年)7月10日投票
第6回伯子男爵議員選挙1925年(大正14年)7月10日投票
第7回伯子男爵議員選挙1932年昭和7年)7月10日投票
第8回伯子男爵議員選挙1939年(昭和14年)7月10日投票

第9回伯子男爵議員選挙は、本来ならば1946年(昭和21年)7月10日に投票が実施されるはずだった。しかし同年5月に召集された第90回帝国議会ですでに日本国憲法の審議が始まっており、この時点で貴族院はせいぜい向う1年以内に廃止となることは確定されていた。そのため敢えてこの第9回選挙は実施せず、現職の伯子男爵議員の任期を延長することで対応することになった。そこで先ず「昭和21年7月勅令351号」でこれらの議員の任期を7ヶ月延長して翌1947年(昭和22年)2月10日までとし、さらに「昭和21年12月勅令612号」でこれを3ヶ月弱再延長して日本国憲法施行日の前日である1947年(昭和22年)5月2日までとした。

同時期に多額納税者議員と帝国学士院会員議員に対しても同様の任期延長措置がとられている。
勅任議員
勅選議員

国家に勲労ある、または学識ある30歳以上の男子の中から、内閣の輔弼により勅任された(貴族院令第5条)[2]。勅選議員は終身任期だった(貴族院令第5条)。

1890年明治23年)の帝国議会創設時には61名が選出された(元老院議官27名、各省官吏10名、民間人9名、帝国大学代表6名、宮中顧問官6名、内閣法制局3名)。

新しい勅選議員は実質的にその時々の内閣が独自の判断にもとづいて選任したが、多くの場合は退陣の決まった内閣がその最後の数日間に候補者を奏薦して勅任を仰いだ。1926年(昭和元年)から1947年(昭和22年)までに勅選議員に勅任された者は170名を数えるが、直前の肩書きの内訳は官僚39%、財界人25%、大臣16%、代議士8%、大学教授4%、軍人3%となっている。官僚出身者が多かったため、華族議員と比べると実務型で有能な人材が多く、彼らが貴族院をリードすることが多かった[2]

1905年(明治38年)以後は勅選議員の定員が125名以内に固定された。また当初は勅選議員と多額納税者議員の総数は華族議員の総数以下と定められていた(貴族院令第7条)。この規定は1925年(大正14年)に廃止されたものの、華族議員の総数が非華族議員の総数を下回ることは結局その後もなかった。
帝国学士院会員議員

1925年(大正14年)に新設された。帝国学士院会員で30歳以上の男子から互選の上で勅任された。任期は7年。定員は4名(帝国学士院は、分野ごとに2部に分けられたため、各部ごとに2名ずつ選出された)。互選の方法その他は貴族院帝国学士院会員議員互選規則(大正14年勅令第233号)に定められた[2]。「投票用紙ニハ選挙人ノ氏名ヲ記載スルコトヲ得ス」と無記名投票であった。
多額納税者議員

土地あるいは工業・商業につき多額の直接国税[注 2]を納める30歳以上の者の中から互選の上で勅任された(貴族院令第6条)。任期は7年。互選の方法その他は、貴族院多額納税者議員互選規則(大正14年勅令第234号)に定められた[17]。貴族院令第六条ノ議員選挙ニ付衆議院議員選挙法中罰則ノ規定準用ニ関スル法律(大正14年法律第48号)により、多額納税者議員については衆議院議員選挙法の罰則規定が準用された。

当初は各府県ごとに直接国税納付者15名より1名が互選され、北海道庁と沖縄県は対象外とされたので定員は45名であった。1918年(大正7年)に北海道・沖縄からも選出されることになり、1925年(大正14年)には庁府県ごとに多額納付者100名につき1名または200名につき2名に改められて定員は66人以内となった[18]。当初は記名投票だったが、1925年(大正14年)に秘密投票に改められた。また、単記投票制だった。

1944年(昭和19年)には樺太庁からも1名選出されることになり、定員67人以内と改められたが、敗戦による樺太喪失によって一度も選出は行われなかった。1946年(昭和21年)6月の貴族院令の一部を改正する勅令案が可決されたことで、樺太出身の多額納税者議員の根拠法は無くなった(一方で沖縄の実効支配を喪失したとはいえ、沖縄県出身の多額納税者議員の根拠法は貴族院廃止の1947年(昭和22年)5月まで維持された)。

彼らの政治活動は微弱だったが、金持ち議員として批判に晒されやすかった[19]
朝鮮勅選議員・台湾勅選議員

外地朝鮮または台湾に在住する満30歳以上の男子にして名望ある者より特に勅任された[注 3]。任期は7年。定員は両方合わせて10名以内[19]

1945年(昭和20年)4月に創設されたが、戦争末期のためほとんど機能しなかった。翌1946年(昭和21年)5月16日に召集された第90回帝国議会(臨時会)が6月20日に開会され、名簿上は9人の外地議員(朝鮮人議員6人・台湾人議員3人)が確認されている。6月25日に政府が朝鮮・台湾からの勅任議員に関する規定を削除する貴族院令改正勅令案を貴族院に提出し、6月29日に本会議で勅令案は可決され、7月9日の本会議で9人の外地議員の資格が7月4日付けで消滅したことが議長から報告された。

朝鮮勅選議員宋鍾憲(野田鍾憲/伯爵)李埼鎔(子爵)尹致昊(伊東致昊)[注 4]金明濬(金田明)
韓相龍朴相駿(朴澤相駿)[注 5]朴重陽(朴忠重陽)
台湾勅選議員許丙簡朗山(緑野竹二郎)林献堂

議長・副議長、仮議長詳細は「貴族院議長 (日本)」を参照
歴史貴族院と明治天皇(1890年(明治23年))1936年昭和11年)、貴族院本会議にて貴族院議長近衛文麿が勅語奉答文を朗読

伊藤博文天皇を中心とした君主制を維持するためにも、天皇を補佐する世襲貴族(華族)の必要性があると認識していた。したがって、選挙による選出である衆議院とは対照的に、貴族院は世襲貴族をその中心に据えた。河野敏鎌は議員の地位を世襲とせず、華族による互選を主張したが、伊藤は「今世襲議員を貴族院より除くは取も直さず世襲貴族を廃するに同じ」と拒絶した。ただし、伯爵以下の貴族は数が多く、全員を議員にすることはできなかったため、同じ爵位の華族による互選となった。

貴族院規則は、草案の段階では議長が決めた議事日程の変更について議員が動議を提起する権利を認めていたが、お雇い外国人英国人法学者ピゴット伊藤博文にした意見などにより、同権利は削除された[21]


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