貨幣法
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第十二条?第十三条は磨耗などによる流通不便の損貨に対する交換などの規定である。第十四条は金貨の自由鋳造に関する事項である。

附則第十六条において一圓銀貨幣は製造を停止し、暫時金貨幣に引換えることとし、明治30年9月18日勅令第338号〔1897年〕において1898年(明治31年)4月1日限りで通用禁止するとされた。しかし、1898年6月10日に同年7月31日まで引換え期限が延長された(明治31年法律第5号〔1898年〕)[9]

附則第十七条では従来発行の、五銭銀貨幣、二銭、一銭、半銭および一厘銅貨幣(明治6年8月29日太政官布告第308号〔1873年〕)、寛永通寳銅一文銭(一厘)、寛永通寳真鍮四文銭(二厘)および文久永寳(一厘半)も従前通り通用することとされた。附則第十九条において貨幣法に抵触する従前の貨幣条例などは廃止され、この第十九条においては文として直接的に明記されてはいないが、勝手に鋳潰しても差し支えないとされ事実上の貨幣の資格を失っていたが法的には効力を維持していた寛永通寳鉄四文銭(1/8厘)・鉄一文銭(1/16厘)もこれにより完全に通用停止(廃止)されたと見なされている。

貨幣法は1897年(明治30年)3月26日に制定され、附則第二十条により附則第十八条の一圓銀貨の廃止の項目を除き1897年10月1日より施行された。
台湾・樺太および朝鮮における貨幣法の施行
台湾・樺太台湾銀行券引換元圓銀

台湾においては一圓銀貨幣が「光龍銀」あるいは「粗龍銀」と称し主要な通貨として流通していた。日本国内の貨幣法施行後、台湾ニ於テ政府極印附一円銀貨幣公納使用ノ件(明治30年10月22日勅令第374号)により丸銀を打印した一圓銀貨幣に限り時価にて公納および政府の支払いに用いることを認めた。明治30年11月21日台湾総督府告示第68号〔1897年〕により台湾においても丸銀の有無に拘りなく公納は1898年4月1日限りとした。しかしこれは台湾の実情に合わないため、明治31年3月15日台湾総督府告示第18号〔1898年〕で当分の間公納を認めた。さらに明治31年7月30日律令第19号〔1898年〕では一圓銀貨幣は台湾総督の告示する時価において無制限通用とすることが布告された。1901年からは一圓銀貨幣と全く同形式の台湾銀行券引換元圓銀が製造され台湾に回送されていた。しかし1902年頃、銀相場の下落が著しく相場も不安定で弊害が大きいことから幣制改革が必要とされ、貨幣法ヲ台湾ニ施行スル件(明治44年4月1日勅令第64号)により台湾に貨幣法を施行した[5][10]。また同日付の貨幣法、銀行条例等ヲ樺太ニ施行スルノ件(明治44年4月1日勅令第65号)により南樺太にも貨幣法を施行した。
韓国

1905年光武9年、明治38年)6月に大蔵大臣令により大阪造幣局にて韓国の貨幣の製造を請負うこととなった[11]。これ以降、発行されたのが二十金貨幣、十圜金貨幣、五圜金貨幣、半圜銀貨幣、二十銭銀貨幣、十銭銀貨幣、五銭白銅貨幣、一銭青銅貨幣、および半銭青銅貨幣であった。これらは1907年以降に小型化された青銅貨幣を除き、何れも日本の貨幣と品位および量目において同一であった。1910年8月29日に日韓併合が行われ、1911年1月に大蔵大臣と朝鮮総督は旧韓国貨幣条令に基づく貨幣は今後一切製造せず、将来は日本の貨幣法に基づく貨幣に統一することを申し合わせた。大蔵大臣と朝鮮総督との協議の結果は、旧韓国貨幣ノ処分ニ関スル法律(大正7年4月1日法律第23号)として法制化され、、貨幣法ヲ朝鮮ニ施行スルノ件(大正7年4月1日勅令第60号)により、貨幣法を朝鮮に施行することとした[5]
貨幣法の行方明治39年(1906年)改正 銀貨幣明治40年(1907年)改正 銀貨幣大正5年(1916年)改正 青銅貨幣大正5年(1916年)改正 白銅貨幣大正9年(1920年)改正 白銅貨幣大正11年(1922年)改正 銀貨幣昭和8年(1933年)改正 ニッケル貨幣
貨幣法改正

貨幣法の改正は計7回行われ、何れも銀高騰に伴う鋳潰し防止のための補助銀貨の改正など補助貨幣の材質、品位および量目変更に関するものであった。

明治39年4月7日法律第26号、5月19日勅令第109号、施行6月1日〔1906年〕
低迷していた銀相場は
1903年(明治36年)あたりから上昇に転じ、補助銀貨に鋳潰しの懸念が生じたため、1906年(明治39年)に補助銀貨の銀含有量を下げる、初めての貨幣法改正となった。この時点では小型で流通不便が懸念される十銭銀貨は模様のみの改正で量目および品位はそのままとされた。しかしこの十銭銀貨幣は少量発行されたものの流通させず、発行分は全て回収、鋳潰され、見本用として僅かな量が残されるのみとなった。

明治40年3月6日法律第6号、3月13日勅令第32号、施行4月1日〔1907年〕
1907年(明治40年)には十銭銀貨幣も品位を下げ銀含有量において額面と比例するよう貨幣法が再び改正された[9][12]

大正5年2月24日法律第8号、3月30日勅令第35号、施行4月1日〔1916年〕
1916年(大正5年)には3度目の貨幣法改正が行われた。量目改正がこれまで行われず相対的に地金価値が高くなり、かつ大型で流通不便であった青銅貨の量目を改正しこの結果量目は額面比例ではなくなった。五銭白銅貨幣は二十銭銀貨幣と紛らわしいことから近代貨幣として初めて有孔となった。

大正7年5月1日法律第42号、勅令第111号、即日施行〔1918年〕
第一次世界大戦により銀相場がさらに高騰し、1918年(大正7年)に4度目の貨幣法改正において五十銭、二十銭、十銭銀貨幣の量目がさらに縮小され、このうち五十銭および十銭が発行された(二十銭は試作品のみの製造)。しかし銀相場は依然不安定な状態であったため、これらの銀貨幣は日本銀行に正貨準備の一部として繰入れられ保管されたまま、結局流通することなく回収され1923年(大正12年)までに鋳潰された(ごく僅かな量が現存している)。補助銀貨の不足に対応するため、1917年(大正6年)11月8日から五十銭、二十銭、十銭の小額政府紙幣が発行された(大正6年10月30日勅令第202号〔1917年〕)。

大正9年7月27日法律第5号、8月27日勅令第334号、即日施行〔1920年〕
1920年(大正9年)に5度目の貨幣法改正が実施された。ここでは十銭が白銅貨幣に変更され、これに伴い五銭も小型化された。このとき白銅貨幣の法貨としての通用制限額が一圓から五圓に引き上げられた。

大正11年4月28日法律第73号、勅令第240号、即日施行〔1922年〕
銀相場の高騰はとどまる所を知らず、これに対処すべく1922年(大正11年)には6度目の貨幣法改正が実施され、五十銭および二十銭銀貨幣の量目がさらに縮小され、このうち五十銭のみが発行された(二十銭は試作品のみの製造)。

昭和8年9月1日法律第58号、勅令第232号、即日施行〔1933年〕
満州事変勃発を期に日本は戦時体制に備えるためニッケルの備蓄が必要となり、1933年(昭和8年)には十銭および五銭白銅貨幣をニッケル貨幣に改正する7度目の貨幣法改正が行われた。このとき従来尺貫法で表記されていた貨幣の直径および量目はメートル法表記に変更された。これに伴い金貨幣、銀貨幣、青銅貨幣も事実上直径および量目はそのままに、表記のみを変更して改めて制定されたが、金貨幣は製造されることはなかった。
金本位制の動揺および事実上の停止

第一次世界大戦勃発に伴い1914年8月1日にいち早く金輸出禁止を行ったドイツを皮切りに欧州の主要各国は、金の国外流出を防止するため軒並み金輸出を禁止した。アメリカも1917年9月10日に輸出を禁止し、日本もこれに倣い1917年9月12日大蔵省令第28号により金の輸出を許可制とし、事実上の輸出禁止とした。この直前の9月6日大蔵省令第26号により銀相場騰貴に伴い銀の輸出が許可制となっていた。このとき国内における金兌換は停止されなかったが、事実上自由鋳造といった金本位制は機能を停止することとなった。しかし大正初期までの日本の金貨の国外流出高の総計は依然として多額に登っていた。1914年(大正3年)末において日本の金準備高は218,237千円(金貨97,247千円、金地金120,989千円)と低迷していたが、戦場が欧州中心であったことを尻目に日本経済は軍需景気で活況を呈し、輸出超過から1917年末では金準備高は649,618千円(金貨137,006千円、金地金512,611千円)と増加し、1920年末には1,246,688千円(金貨248,839千円、金地金997,848千円)と最高に達した[5][13][14]。1916年(大正5年)当時の対米円相場は100圓=48?50ドル程度とほとんど平価を保っておりこの時点で金の国外流出の懸念はほとんどなかった[5]。しかし各国が金輸出禁止する中、輸出禁止の措置を行わないことは潜在的に金流出の危機にあった。

戦争が終結すれば金解禁を行い金本位制に復帰するのが常であり、1919年6月にアメリカが旧平価において金解禁に踏み切ったのを皮切りに、1925年にはイギリスも旧平価において金解禁を行った。ベルギーフランスイタリアは平価を大幅に引き下げて金解禁を行った[12]。その中で日本も金解禁に踏み切るべきとの気運が高まったが、1920年春には経済界の戦後恐慌、1923年(大正12年)9月1日には関東大震災と国家財政を震撼させる事件が相次ぎ、日本は大幅な財政赤字および貿易赤字を抱え円相場は100圓=38ドルまで急落し金解禁が困難な状況に陥った[14]。それでも1929年(昭和4年)末には何とか1,072,273千円(金貨252,913千円、金地金819,359千円)の正貨準備を確保し、当時の円相場は100圓=38?43ドル程度で推移していたが1930年1月11日に一等国の自負があるとして旧平価において遂に金解禁に踏み切った。しかし円安の中旧平価で金解禁を行うことは、激しい金の国外流出を意味し1932年(昭和7年)1月末の正貨準備は430,553千円(金貨228,612千円、金地金201,940千円)と激減した。このため昭和6年12月13日大蔵省令第36号〔1931年〕により金輸出および兌換が禁止され、再び金解禁が行われることはなく日本は事実上金本位制から離脱することとなった。この後、1932年末には円相場は100圓=26ドル台まで下落した[4]

1942年(昭和17年)2月23日には日本銀行法 (旧) (昭和17年法律第67号〔1942年〕)が制定され、貨幣法第二条の「純金ノ量目七五〇ミリグラムヲ以テ価格ノ単位ト為シ之ヲ圓ト称ス」には依らず、第十四条の金貨の自由鋳造は当分適用しないこととし、事実上日本は管理通貨制度に移行した。


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