財産
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とはいえその私有地も国衙から公領として接収されることがあり、彼らは寺社や上級貴族に自分の所有地を荘園として「寄進」し、その庇護を受けることで国家権力の干渉から逃れようとした[29]。上級貴族は朝廷での政治力を駆使して自分の荘園に不輸不入の権を認めさせ、開発領主は自分の開墾した土地の実質的な支配者としてその荘園を管理した。この寄進地系荘園は平安時代に増え続け、当時栄華を誇った藤原氏の財産基盤となった。

不輸不入の権で国の干渉に対抗した荘園だが、他の勢力から実力行使で侵害された場合は現地でそこを守る必要があった。自分の力で荘園を守るために武装したのが武士の始まりであり[29]、武士団の棟梁となった源頼朝によって12世紀末に鎌倉幕府が開かれると、土地を介した御恩と奉公という主従関係による統治が確立する[30]。日本の中世に確立した土地財産に基づくこの封建制度は、19世紀の江戸幕府終焉(1868年)まで実に700年近く続いた。当時の日本では、米の収穫量に基づく貫高制石高制で土地が評価されていた点も特筆に値する。これが農民の納めるべき年貢を決める役割であったのは無論だが、諸国大名の国力(土地の農耕収穫力)を示す指標でもあり、農耕社会という礎があって土地の財産価値が鑑定されていた証拠だと言える。

稀少性による財物については、中国を含むユーラシア大陸からの伝来品が主に珍重された。奈良時代の正倉院宝物にもシルクロードを経て渡来したと思われるガラス工芸の白瑠璃碗をはじめ、インドイランギリシャローマエジプトにまでおよぶ当時の主要文化圏の宝物が見つかっている[31]。中世に入ると、鉄砲などを伝来させたポルトガルとの南蛮貿易を介して、様々な舶来品が戦国大名にもたらされた。当時の日本はが輸出の主力品であり、特に中国との貿易で銀本位制が発達した。なお、異国の舶来品に高い財産価値を見いだすのは日本に限った話ではない。ヨーロッパでも大航海時代以降、自国で入手の難しい東南アジアの香辛料、中国の青磁、日本の浮世絵などが高く評価された。

近代に入ると1872年(明治5年)に田畑勝手作許可が出たことで、江戸時代までの封建的な土地所有制限[注釈 12]が解除され、土地の私的所有権が広く認められるようになる。ほぼ同時期に行なわれた地租改正では従来の石高から地価を課税基準としたため、豊凶作に関係なく税収が安定し、明治政府の財政基盤を確立することとなった。なお、この改正により田畑だけでなく江戸時代に年貢を免除されていた武家地や町地なども課税対象となった[33]。この時、公のために民有地を収用する制度も組み込まれ、河川改修や鉄道・電気・港湾・病院・学校の建設など、明治期の近代化を支えることになった[34]

財産に関する近代的な法的整備も明治時代に行われた。1896年に現在の「民法」が公布され、所有権(民法第270条)をはじめ物権債権などの基本法規が定められた。また、財産相続については1898年に民法で公布され、施行された[35]。財産を有する側の各種権利がこうして保護される一方、持たざる側の保護は立ち遅れた。土地所有権に対する小作権はきわめて弱く、小作料(土地使用の賃貸料)に苦しむ農民が困窮するなか一部地主への土地集中が進み、寄生地主制が広範に確立した[36]

1921年(大正10年)になると、第一次世界大戦後の不況を受けて借りる側の借地法借家法が制定される。また、1930年代後半からの戦時体制では、食糧確保の必要性から耕作権の方が重視され[36]、農地の地主制は縮小していった。

第二次世界大戦に敗れた日本は、翌1946年(昭和21年)から行われた農地改革で、政府が各地の小作地を強制買収し、これを実際に耕作している小作人に低価格で優先的に売り渡した[37]。これにより従来の地主制は事実上解体され、戦後の日本では土地を所有する自作農が大半となった。農地改革と並び、戦後日本の経済体制を変革させる転機となったのがGHQ主導による財閥解体である。戦前に寡占的な地位を築いていた各産業の巨大企業が解体されたことで、従来は参入の難しかった分野にも新興企業が進出できるようになり[38]、日本がより競争的で民主的な市場経済を発達させるきっかけとなった。国内での市場競争が戦後の高度経済成長期を支え、1960年の池田内閣が打ち出した「所得倍増計画」によって日本の国民所得生活水準も上がり、1968年には国民総生産が世界2位に達するほどの戦後復興を果たした[39]

戦後は各国も国際貿易が経済成長に欠かせなくなり、特許や著作物といった知的財産を世界的観点から保護する必要性が増したことから、1970年に世界知的所有権機関が設立された。なお、日本では知的財産権が明治時代の文明開化によってもたらされ、1885年(明治18年)には特許制度に関する「専売特許条例」が公布された[40]。意外なことに、日本では財産の所有権を規定する民法よりも、知的財産の特許が約10年早く法的な後ろ盾を受けたのである。楽譜や写真を含む旧著作権法の制定は明治時代後期の1899年であるが、図書の版権に関して言えば1869年(明治2年)の出版条例で早くも保護規定が作られている。
西洋の宗教哲学的な視点「キリスト教における富」も参照

宗教指導者が「財産を沢山保有しなさい」と信者に向けて説くことは滅多に無い。むしろ逆で、私財を蓄えることは宗教的解脱の妨げになると古代から考えられてきた。例えば新約聖書には次のように書かれている。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}イエスは弟子たちに言われた、「よく聞きなさい。富んでいる者が天国に入るのは、むずかしいものである。また、あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」—マタイによる福音書 19:23-26イエスは目をあげ、弟子たちを見て言われた、「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである」—ルカによる福音書 6:20

特に宗教権威ローマ教皇の影響が歴史的に大きい西洋では、この禁欲的なキリスト教思想を踏まえた哲学的観点からしばしば財産が論じられてきた。なお、資本主義成立以前の中世およびルネッサンス期あたりまでは「財産(property)」という語が本質的に土地を指していた。
古代哲学

シュメールの王ウルイニムギナは、土地(property)の強制売却を禁じる最初の法律を制定した[41]

旧約聖書のレビ記19:11および同19:13には「あなたがたは盗んではならない」と書かれている。

アリストテレスは『政治学』において「私有財産」という概念を提唱している[42]。彼は自己利益が共同体の無視につながるとして「誰もが自分自身のことを第一に考え、共同体の利益は殆ど考えない」[43]と論じた。さらに、財産が共同の場合は労働の違いから生じる先天的な問題がある、と次のように述べている。「もし人々が平等に苦楽を共有しないなら、多く働いて稼ぎの少ない人々は殆ど働かずに沢山貰ったり沢山消費する人達に必然的に不平を言うだろう。しかし実際のところ、複数の人達で一緒に生活してその全員と共同の関係になること、特に共同の財産を持つことは常に困難である。—アリストテレス、『政治学』1261b[44]

キケロは、自然法のもとに私有財産は存在せず人定法のもとでのみ存在すると考えた[45]小セネカは、人間が強欲になって初めて必要になるものを財産と考えた[46]。後にアンブロジウスがこの見解を採用し、ヒッポのアウグスティヌスでさえ異教徒が労働したことによる財産を唯一皇帝が没収できないことに不平を漏らした[47]
中世哲学「中世ヨーロッパにおける教会と国家」も参照

欧州全体にキリスト教が伝播し、教皇領が形成されて教会権力が絶大となる中世の半ばまで、私有財産に否定的な初期キリスト教思想は引き続き大きな影響力を持っていた。一方で、キリスト教権威と土地の封建支配をする諸国王権との権力争いも目立ち始め、中世後期には従来のキリスト教思想を一部修正する哲学者が現れるようになる。
トマス・アクィナス (13世紀)

グラティアヌス教令集という12世紀のカノン法は、人定法が財産を創造しているに過ぎないと主張し、ヒッポのアウグスティヌスによって使われたフレーズを繰り返した[48]


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