財産
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先述のとおり、農耕社会の形成によって日照や水はけなど耕作に適した土地を人々が財産と考えるようになったのであれば、世界史の観点では農耕生活が約1万年前の新石器時代に遡ることができ[23]、日本においては水田稲作が中国より伝播する縄文時代後晩期(約3000-4000年前)[24]から弥生時代までに、土地を財産と見なすようになったと考えられる。

弥生時代に入ると、権力者同士が国を超えて(使者を介して)財物をやりとりするようになった。金印として知られる漢委奴国王印は、光武帝が57年に奴国の朝賀使へ渡したものと『後漢書』に記されている。また239年には、卑弥呼が使者を送って生口10人と班布をの皇帝に献じたと『魏志倭人伝』に記されているので[25]、人の体を財産と見なす思想もこの時代までには確立していたようである。権力者同士が貢ぎ合いによって国力の一端を示すようになったことに伴い、国家が人民から財産の一部(当時は地産物)を徴収する「」という仕組みも弥生時代に誕生したとされている[26]

日本史において、国家政府が土地という財産に直接干渉するようになったのは、大化の改新を経て翌646年に示された「改新の詔」が発端とされる。それまで皇族や各地の豪族が私的に各々所有していた土地と人民の支配から、朝廷が管理する公地公民制への転換が始まったのである。奈良時代の班田収授法では、国家の農地(班田)が人民へと貸し与えられ、人民はそこの収穫物から一定割合を「田租」として国へ納め、残りを自らの食料にできた。なお、人民は班田の売買譲渡権利を持たず、死亡者の田は朝廷に返却された[27]。ただし、租庸調で知られる各種の重い税負担から人民が逃げ出してしまい、公地公民制は長続きしなかった。灌漑施設と開墾を条件にその土地を3世代所有できる制度(三世一身法、723年)も作られたが事態は好転せず、743年に墾田永年私財法が発布された。これは、班田以外に自分で開墾した土地については私有を永年認めるというものである[28](但し開墾した土地は輸租田とされ、国への納税義務を伴った)。かくして公地公民制は百年と経たぬうちに形骸化してしまう。

土地の私有を認める法律ができたことで、それまで蓄財していた豪族が[注釈 11]開発領主に転換して土地を開墾・所有した(所有する田畑とその農民に対しては強力な進止権が公的に与えられた)。とはいえその私有地も国衙から公領として接収されることがあり、彼らは寺社や上級貴族に自分の所有地を荘園として「寄進」し、その庇護を受けることで国家権力の干渉から逃れようとした[29]。上級貴族は朝廷での政治力を駆使して自分の荘園に不輸不入の権を認めさせ、開発領主は自分の開墾した土地の実質的な支配者としてその荘園を管理した。この寄進地系荘園は平安時代に増え続け、当時栄華を誇った藤原氏の財産基盤となった。

不輸不入の権で国の干渉に対抗した荘園だが、他の勢力から実力行使で侵害された場合は現地でそこを守る必要があった。自分の力で荘園を守るために武装したのが武士の始まりであり[29]、武士団の棟梁となった源頼朝によって12世紀末に鎌倉幕府が開かれると、土地を介した御恩と奉公という主従関係による統治が確立する[30]。日本の中世に確立した土地財産に基づくこの封建制度は、19世紀の江戸幕府終焉(1868年)まで実に700年近く続いた。当時の日本では、米の収穫量に基づく貫高制石高制で土地が評価されていた点も特筆に値する。これが農民の納めるべき年貢を決める役割であったのは無論だが、諸国大名の国力(土地の農耕収穫力)を示す指標でもあり、農耕社会という礎があって土地の財産価値が鑑定されていた証拠だと言える。

稀少性による財物については、中国を含むユーラシア大陸からの伝来品が主に珍重された。奈良時代の正倉院宝物にもシルクロードを経て渡来したと思われるガラス工芸の白瑠璃碗をはじめ、インドイランギリシャローマエジプトにまでおよぶ当時の主要文化圏の宝物が見つかっている[31]。中世に入ると、鉄砲などを伝来させたポルトガルとの南蛮貿易を介して、様々な舶来品が戦国大名にもたらされた。当時の日本はが輸出の主力品であり、特に中国との貿易で銀本位制が発達した。なお、異国の舶来品に高い財産価値を見いだすのは日本に限った話ではない。ヨーロッパでも大航海時代以降、自国で入手の難しい東南アジアの香辛料、中国の青磁、日本の浮世絵などが高く評価された。

近代に入ると1872年(明治5年)に田畑勝手作許可が出たことで、江戸時代までの封建的な土地所有制限[注釈 12]が解除され、土地の私的所有権が広く認められるようになる。ほぼ同時期に行なわれた地租改正では従来の石高から地価を課税基準としたため、豊凶作に関係なく税収が安定し、明治政府の財政基盤を確立することとなった。なお、この改正により田畑だけでなく江戸時代に年貢を免除されていた武家地や町地なども課税対象となった[33]。この時、公のために民有地を収用する制度も組み込まれ、河川改修や鉄道・電気・港湾・病院・学校の建設など、明治期の近代化を支えることになった[34]

財産に関する近代的な法的整備も明治時代に行われた。1896年に現在の「民法」が公布され、所有権(民法第270条)をはじめ物権債権などの基本法規が定められた。また、財産相続については1898年に民法で公布され、施行された[35]。財産を有する側の各種権利がこうして保護される一方、持たざる側の保護は立ち遅れた。土地所有権に対する小作権はきわめて弱く、小作料(土地使用の賃貸料)に苦しむ農民が困窮するなか一部地主への土地集中が進み、寄生地主制が広範に確立した[36]

1921年(大正10年)になると、第一次世界大戦後の不況を受けて借りる側の借地法借家法が制定される。また、1930年代後半からの戦時体制では、食糧確保の必要性から耕作権の方が重視され[36]、農地の地主制は縮小していった。

第二次世界大戦に敗れた日本は、翌1946年(昭和21年)から行われた農地改革で、政府が各地の小作地を強制買収し、これを実際に耕作している小作人に低価格で優先的に売り渡した[37]。これにより従来の地主制は事実上解体され、戦後の日本では土地を所有する自作農が大半となった。農地改革と並び、戦後日本の経済体制を変革させる転機となったのがGHQ主導による財閥解体である。戦前に寡占的な地位を築いていた各産業の巨大企業が解体されたことで、従来は参入の難しかった分野にも新興企業が進出できるようになり[38]、日本がより競争的で民主的な市場経済を発達させるきっかけとなった。国内での市場競争が戦後の高度経済成長期を支え、1960年の池田内閣が打ち出した「所得倍増計画」によって日本の国民所得生活水準も上がり、1968年には国民総生産が世界2位に達するほどの戦後復興を果たした[39]

戦後は各国も国際貿易が経済成長に欠かせなくなり、特許や著作物といった知的財産を世界的観点から保護する必要性が増したことから、1970年に世界知的所有権機関が設立された。なお、日本では知的財産権が明治時代の文明開化によってもたらされ、1885年(明治18年)には特許制度に関する「専売特許条例」が公布された[40]。意外なことに、日本では財産の所有権を規定する民法よりも、知的財産の特許が約10年早く法的な後ろ盾を受けたのである。楽譜や写真を含む旧著作権法の制定は明治時代後期の1899年であるが、図書の版権に関して言えば1869年(明治2年)の出版条例で早くも保護規定が作られている。
西洋の宗教哲学的な視点「キリスト教における富」も参照

宗教指導者が「財産を沢山保有しなさい」と信者に向けて説くことは滅多に無い。むしろ逆で、私財を蓄えることは宗教的解脱の妨げになると古代から考えられてきた。例えば新約聖書には次のように書かれている。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}イエスは弟子たちに言われた、「よく聞きなさい。富んでいる者が天国に入るのは、むずかしいものである。また、あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」—マタイによる福音書 19:23-26イエスは目をあげ、弟子たちを見て言われた、「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである」—ルカによる福音書 6:20


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