後漢が建てられると、豫章郡の称にもどされた。豫章郡は南昌・建城・新淦・宜春・廬陵・?・?都・南野・南城・?陽・歴陵・余汗・?陽・彭沢・柴桑・艾・海昏・平都・石陽・臨汝・建昌の21県を管轄した[5]。
晋のとき、豫章郡は南昌・海昏・新淦・建城・望蔡・永修・建昌・呉平・豫章・彭沢・艾・康楽・豊城・新呉・宜豊・鍾陵の16県を管轄した[6]。
南朝宋のとき、豫章郡は江州に属し、南昌・新淦・豊城・建城・望蔡・呉平・永修・建昌・豫章・康楽・新呉・艾の12県を管轄した[7]。
南朝斉のとき、豫章郡は南昌・新淦・艾・建城・建昌・望蔡・新呉・永修・呉平・康楽・豫章・豊城の12県を管轄した[8]。
589年(開皇9年)、隋が南朝陳を滅ぼすと、豫章郡は廃止されて、洪州が置かれた。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、洪州が廃止されて豫章郡と改称された。豫章郡は豫章・豊城・建昌・建城の4県を管轄した[9]。
622年(武徳5年)、唐が林士弘を平定すると、豫章郡は洪州と改められ、豫章・豊城・鍾陵の3県を管轄した。742年(天宝元年)、洪州は豫章郡と改称された。758年(乾元元年)、豫章郡は洪州と改称され、豫章郡の呼称は姿を消した[10]。
脚注^ a b 『漢書』地理志上
^ 『漢書』韓彭英盧呉伝
^ 『史記』高祖本紀
^ 『漢書』淮南衡山済北王伝
^ 『後漢書』郡国志四
^ 『晋書』地理志下
^ 『宋書』州郡志二
^ 『南斉書』州郡志上
^ 『隋書』地理志下
^ 『旧唐書』地理志三
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