象徴主義
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起源マルスラン・デブータンによる「ジョセファン・ペラダンの肖像」(1891年

文学においては、象徴主義運動はシャルル・ボードレールの『悪の華』(1857)にその起源が見出される。象徴派の美学は1860-70年代にステファヌ・マラルメポール・ヴェルレーヌによって発展を見た。1880年代には、一連の宣言文に支えられ、象徴主義美学は一団の作家たちを呼び寄せた。ボードレールによるエドガー・アラン・ポーの作品の仏訳は大きな影響力を持ち、象徴主義の数多くの転義法とイマージュの源泉となった。

文学における運動とは別に、美術における象徴主義も、ロマン主義ゴシック的な側面から出現した。しかしながらロマン主義美術が直情的かつ反逆的であったのに対し、象徴主義美術は静的かつ儀式的なものであった。象徴主義における不可知なもの神秘的なものに対する偏愛は、19世紀末のカトリック復古運動にもつながっていく。今までにないカトリック復古の動きは作家オスカー・ワイルドや画家オーブリー・ビアズリーのカトリック改宗に見られる。また同じくこの時期に改宗した作家ジョリス=カルル・ユイスマンスが、デカダンスや悪魔主義といった題材から大きく立場を変え、最晩年には19世紀に盛り上がりを見せたカトリック的奇跡への希求を『ルルドの群衆』で取り上げている。しかし俗化した従来の宗教制度に対する忌避は、カトリック回帰にとどまらず、儀式性と象徴性を重んじる新興の神秘主義団体への傾斜にも向かうことになる。『秘教哲学全集』を著したエリファス・レヴィからフランス象徴主義詩人への影響、マグレガー・メイザースらの「黄金の夜明け団」からアイルランド詩人イェイツへの影響などは見逃せないつながりである。また(カトリック)薔薇十字団[6]を結成しフランスやベルギーの象徴主義の芸術家の結束を促した神秘主義者ジョセファン・ペラダンの功績は特筆すべきものがある。
音楽ペレアスとメリザンド』。エドモンド・レイトン

象徴主義は音楽にも影響を及ぼした。象徴派の作家・芸術家や批評家の多くは、リヒャルト・ワーグナーの音楽に好意的であった[7]

象徴主義の美学はクロード・ドビュッシーの仕事に重要な影響を及ぼした。ドビュッシーの歌詞やテーマの選択はほぼ全てが象徴派からであった。『ボードレールの5つの詩』の編曲、ヴェルレーヌの詩による歌曲オペラペレアスとメリザンド』、エドガー・アラン・ポーの2つの物語による未完のオペラ『鐘楼の悪魔』と『アッシャー家の崩壊』といった作品はドビュッシーの象徴主義的な趣味と影響を示している。最重要作品である『牧神の午後への前奏曲』はマラルメの詩『牧神の午後』に着想を得ている[8]

ドビュッシーやラヴェルに影響を与えたエリック・サティは、若い時分には薔薇十字団とつながりがあったことが知られている[9]。1892年の3月10日から4月10日にかけてデュラン・リュエル画廊(Durant-Ruel)で開催された「薔薇十字展」開会式典ではエリック・サティによる『薔薇十字のファンファーレ』(Les Sonneries de la Rose-Croix)が演奏されている。
小説

ジョリス=カルル・ユイスマンスの小説『さかしま』(1884)は、後に象徴主義美学に結び付けられるようになるテーマをいくつも含んでいた。動きがほとんど展開されないこの小説は、風変わりな隠遁者であるアンチヒーローのデゼッサントの内面生活を描く、趣味のカタログである。オスカー・ワイルドは『ドリアン・グレイの肖像』の多くの箇所でこの小説を模倣している。

ポール・アダンは最も多産な象徴主義小説家であった。ジャン・モレアスとの共著『グベール嬢』(1886)は自然主義と象徴主義の中間的な作品である。ギュスターヴ・カーンの『狂王』(1896)をほぼ唯一の例外として、象徴主義者はこうした(中間的)手法をほとんど用いなかった。ジュール・バルベー・ドールヴィイの人間嫌い(特に女嫌い)の諸短篇も象徴主義的と考えられる場合がある。ガブリエレ・ダヌンツィオの初期の小説も象徴主義的な意図で書かれた。
絵画ギュスターヴ・モロー『オルフェウス』(1865)

19世紀後半、従来のアカデミスムに対する反発として、一方に印象派の傾向、他方では象徴主義の傾向が見られた。象徴主義は人間の内面や夢、神秘性などを象徴的に表現しようとするもので、文学上の象徴主義と関連して名づけられた。ギュスターヴ・モローが代表的な作家であり、ユイスマンスは『さかしま』の中でモローを高く評価している。

イギリスでは19世紀半ばにはラファエル前派が結成されており、中世に対する憧憬は独自の唯美主義的な美学を生み出し、フランスの象徴主義に先行して独自の発展を遂げた。

フランスでは「カトリック薔薇十字団」[6]を組織した神秘主義者ジョゼファン・ペラダン(Josephin Peladan,1858-1918)による「薔薇十字展(les salons de la rose-croix)」(1892-1897)が開かれ、象徴主義的傾向のある芸術家が多く出品している。またベルギーでは起業家であるオクターヴ・モース(Octave Maus,1856-1919)らにより「20人展(Les XX(レ・ヴァン))」が1883年に結成され、印象主義・新印象主義と競合しながら象徴主義の芸術の拠点となった。

一般にはポスト印象主義総合主義(クロワソニズム)の画家とされるゴーギャンも、写実的な対象の再現の否定や、平面的で装飾的な画面構成の重視、主観性の強い内面表現や、神秘主義的な題材を用いることなどの傾向から象徴主義の画家として位置づけられることがある。すでに19世紀末にはアルベール・オーリエが『メルキュール・ド・フランス』誌において「絵画における象徴主義――ポール・ゴーギャン」なる評論を寄せており、ゴーギャンの影響のもとで結束されたポン=タヴァン派ナビ派の美学にも同じような象徴主義的傾向が窺える。

また象徴主義はアール・ヌーヴォーなど世紀末芸術にも大きな影響を与えた。例えばグラスゴー派の領袖でもあるマッキントッシュは象徴主義的な女性像を意匠化していたが、装飾性を重んじる作風に変化しても象徴主義的な感性は生き続けていたとみてよい。グラスゴーのブキャナン通りクランストン・ティールームの壁画装飾の下絵には象徴主義とアール・ヌーヴォーの混交した様式が見られる。こうした傾向はウィーン分離派などでも窺える。逆にパリで「ベル・エポックの寵児」としてもてはやされたミュシャは、若い頃はアール・ヌーヴォー様式の洗練されたポスターで知られているが、後年には出身地のチェコに帰国し象徴主義的な歴史解釈に基づく重厚な連作『スラヴ叙事詩』を描きあげている。
象徴派の芸術家
文学
ベルギー

モーリス・メーテルリンク(Maurice Maeterlinck, 1862-1949)

温室』(1889年)


グレゴワール・ル・ロワ(Gregoire Le Roy, 1862-1941)

『我が心は過去に涙す』(1889年)


エミール・ヴェルハーレン(Emile Verhaeren、1855-1916)

マックス・エルスカン(フランス語版)(Max Elskamp, 1862 -1931)

カミーユ・ルモニエ(フランス語版)(Camille Lemonnier, 1844-1913)

モーリス・ロリナ(フランス語版)(Maurice Rollinat, 1846-1903)

シャルル・ヴァン・レルベルグ(フランス語版)(Charles Van Lerberghe, 1861-1907)

イギリス


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