沖縄本島南部の西海岸に位置し、東シナ海に面している。東西に長い長方形をなしており、北は那覇市に隣接している。中部を饒波川が西流、のち北流して漫湖へ注ぐ。
瀬長集落から600m沖合に周囲1.5kmの瀬長島がある。戦前まで島内に小さな集落が形成されていたが、戦後は無人島になった。1946年に米軍に接収されたが、沖縄の本土復帰後の1977年に返還される。現在は橋がかかっており自動車での往来が可能で、釣りや潮干狩りの名所として知られるほか、海水浴場・キャンプ場や野球場などの娯楽施設が整備されている。
字一覧
※()内のカタカナ表記はしまくとぅば名[3]
伊良波
豊見城市と全国の年齢別人口分布(2005年)豊見城市の年齢・男女別人口分布(2005年)
■紫色 ― 豊見城市
■緑色 ― 日本全国■青色 ― 男性
■赤色 ― 女性
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豊見城市(に相当する地域)の人口の推移
総務省統計局 国勢調査より
歴史
もとは豊見城間切で、のちに北部が小禄間切(のちの小禄村、現在の那覇市)、南東部が兼城間切(のちの兼城村、現在の糸満市)へそれぞれ分離した。
1908年4月1日 - 島嶼町村制施行により豊見城間切から豊見城村となった。
1976年 - 「日本一人口の多い村」となる。
人口はのちに岩手県紫波郡都南村に抜かれる。都南村の盛岡市への編入により日本一を取り戻すが、岩手郡滝沢村(現:滝沢市)に再び人口を抜かれ、奪還する事なく豊見城村は市に昇格している。その後2014年になって滝沢村も市制施行し、本市と同じく村から市になった。
2002年4月1日 - 単独で村から市になった。現行の地方自治法に基づいて村が市となった初めての例であった[注釈 1]。同時に庁舎を上田から翁長へ本格移転した。
市制施行前、豊見城村の事務所は、日本の町村で唯一「役所」を名乗っていた(通常は「役場」)。その根拠は、復帰前に沖縄で施行されていた市町村自治法(1953年立法第1号)の第4条「……又は市町村役所の位置を定め、若しくはこれを変更しようとするときは、条例でこれを定め、……」である。復帰後、豊見城村は日本の地方自治法に基づく村となったが、地方自治法には市町村の事務所をどう呼ぶかについて規定はない。
沖縄県の名字と同様、地名の読みが沖縄特有の読みから標準語化する流れを受けて「とみぐすく」でなく「とみしろ」が慣例として用いられることが多い。市立豊見城中学校の読みは「とみぐすく」であるが、市内の県立高校2校と市立豊見城小学校の読みは「とみしろ」である。ただ、琉球王国のグスク及び関連遺産群の世界遺産登録前後からは「ぐすく」の読みを再評価する気運も高まっている。 神話によると、琉球の国土は女神アマミキヨ
伝説
瀬長島は豊見城発祥の地
18世紀半ばに琉球王府によって編集された歴史書球陽によると、豊見城城主の汪応祖(わんおうそ)が中国に留学した際、龍船の競漕を見て感激し、帰国後に同様の船を造って漫湖で遊覧したのが始まりとされている。[4]また、『豊見城の王様 わんおうそ ハーリー由来物語』( ⇒PDF版)という絵本が非売品として豊見城商工会青年部まちづくり有志の会により2010年12月29日発行され、市内の学校図書館に数冊寄贈されている。また与根漁港祭りなどでも無料配布されている。[5]
グスク時代
豊見城市にも数カ所のグスクが存在する。豊見城グスクは字豊見城集落近くの丘の上にあり、後に南山王となる汪応祖(わんおうそ・おうおうそ)が築いた城といわれている。三山時代において重要な地位を占めていたが、後に琉球を統一する中山王・尚巴志の火攻めによって落城したとされる。[4]
豊見城市と土佐清水市が姉妹都市であるきっかけはジョン万次郎
土佐(現在の高知県)の漁師に生まれたジョン万次郎(中浜万次郎)は、14歳で漁に出て遭難し、捕鯨船に救助されてアメリカに渡った。日本に帰国後は日米和親条約の締結に貢献するなど、日米の懸け橋になった人物。万次郎は帰国前の1851年、琉球に上陸するも、長期に渡って役人による尋問を受ける。しかしその間、万次郎は高安家を自由に出入りでき、琉球王府は料理人を遣わせて食事の世話をしたり酒も与えたという。上陸から半年後、万次郎は高安家をはじめ村の人々と別れを惜しみつつ、日本へ向かった。ジョン万次郎が高安家で手厚くもてなされたのは、琉球民が土佐に漂着した際温かく介護されたことへの琉球国王の返礼だったといわれる。万次郎の中浜家と高安家の交流はその後も続き、その縁で豊見城市と土佐清水市は姉妹都市となっている。[4]
行政・議会
市長
市長:徳元次人(とくもと つぐと、2022年11月8日就任、1期目)
代氏名就任日退任日備考
初代金城豊明2002年4月1日2010年11月7日旧豊見城村長。市制施行とともに市長就任。
2代宜保晴毅2010年11月8日2018年11月7日