豊臣秀長
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天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いに参戦、田上山に布陣して秀吉が「美濃大返し」を行うまで木ノ本の本陣を守備する。同年美濃守に任官し、播磨但馬の2ヶ国を拝領して姫路城有子山城を居城にした。

天正12年(1584年)、徳川家康との間で小牧・長久手の戦いが起きる。秀長は家康と連合を組んでいる織田信雄領の伊勢へ進軍し、松ヶ島城を落とすなどした。信雄との講和交渉では秀吉の名代として直接交渉に赴いている。この戦いでは甥・羽柴秀次が失態により秀吉に叱責されたが、その後の紀伊・四国への遠征では秀長と共に従軍し、秀吉に対する秀次の信頼回復に尽力した。

天正13年(1585年)、紀州征伐では秀次と共に秀吉の副将に任命され、太田城攻めなどに参加する。紀州制圧後、秀吉から功績として紀伊和泉などの約64万石余の所領を与えられる。同年、居城となる和歌山城の築城時に藤堂高虎を普請奉行に任命する。

同年6月、四国攻めでは病気で出陣できない秀吉の代理人として10万を超える軍勢の総大将に任じられ、自らも阿波へ進軍する。しかし長宗我部氏の抵抗も激しく、また毛利氏宇喜多氏の合同軍のため侵攻が遅れ気味となった。心配した秀吉から援軍の申し出がなされたが、秀長は断りの書状を秀吉に送ると(『四国御発向事』)、一宮城を落とし長宗我部元親を降伏させた。同年閏8月18日[8]、元親を降した功績を賞され、紀伊国・河内国に、大和国を加増されて、合計100万石で郡山城に入城されるが、実際の石高は73万4千石であった(『文禄検地帳』)[8]。秀長の領国である紀伊・大和・河内地方は寺社勢力が強く、決して治めやすい土地柄ではなかったが、諸問題の解決に時に苛烈な処置を辞さなかったものの、後に大きな問題も残さなかったところを見ると、内政面でも辣腕であったことが窺える。現に大和入国と同時期に盗賊の追補を通達(廊坊家文書)・検地実施(諸家単一文書)・全5ヶ条の掟の制定(法隆寺文書)を行うなど多くの政策を実施している。また、大和の陶器・赤膚焼を開窯するなど広い政策も行った。このころ豊臣の本姓を与えられる[6]

従二位、大納言の官位を得て、大和大納言と称される。郡山城ウィキソースに三河物語の原文「(家康に)御毒をまいらせんとて御ふるまいの時被遣けるに、大和大納言とならばせ給ひて上座に御座被成候つるに、御運のつよきによつて御膳の出る時御しきだいを被成て、大和大納言殿を上座へ上させ給ひて下座へ居替らせ給ふゆゑに、其御膳が大和大納言殿へ据りて、家康のきこしめされん御毒を大和大納言の參てはてさせ給ふ」があります。

天正14年2月8日1586年3月27日)、摂津国有馬湯山へ入る(『多聞院日記』)[9]。この頃から体調が崩れやすくなったと思われ、この後も数度にわたり湯治に訪れている。また、湯治中に金蔵院・宝光院などが見舞いとして訪れており、本願寺顕如からも使者が訪れている。同年10月26日12月6日)、上洛を拒み続けた徳川家康が大坂に到着し、秀長邸に宿泊した。その晩、秀吉自ら家康の前に現れて臣従を求める出来事が起きる。これを記す文献は多く存在する(『家忠日記』・『徳川実紀』)。

天正14年(1586年)、大友宗麟島津氏の圧迫により窮地に陥り、秀吉の参戦介入と救済を求めて上洛。秀吉は宗麟をもてなし「内々の儀は宗易(千利休)、公儀の事は宰相(秀長)存じ候、いよいよ申し談ずべし」と述べた。つまり、豊臣政権の大名統制の権限が秀長に委託されていたことが知られるのである(『大友家文書録』)[10]。同年8月、奥熊野の地侍たちによる一揆が発起する(北山一揆)。秀長も出陣したが、豪雪のため征伐は留まった。天正17年(1589年)には一揆は鎮圧された。墓所「大納言塚」(奈良県大和郡山市)

天正15年(1587年)の九州平定では日向方面の総大将として出陣する。耳川の戦いの舞台となった高城を包囲すると、援軍として駆けつけた島津義弘宮部継潤の陣に夜襲を仕掛ける(根白坂の戦い)。継潤が抗戦している間に、藤堂高虎・戸川達安らが合流する。島津軍の夜襲は失敗に終わり、島津軍が薩摩国に撤退する。その後、島津家久が講和に秀長を訪ね、日向方面の進軍は終了する。この功績により、8月に従二位権大納言に叙任された[11]。しかし秀長は、九州征伐に参加した大名に割高な兵糧を売り付けようとして秀吉に止められている。

天正16年(1588年)、紀伊の雑賀において材木の管理をしていた代官・吉川平介が、秀長に売買を命じられた熊野の材木2万本の代金を着服する事件が起きた。秀吉の耳に届き、吉川が処刑される。秀長自身も責任を問われ、秀吉から翌年の年頭の挨拶を拒否された。

天正17年1月1日1589年2月15日)、大坂城にて諸大名と共に、秀吉に新年祝賀の太刀進上を行う(『後編旧記雑録』)。この後、秀長が大坂城を訪れたという記録はない。同年3月、鶴松を懐妊した秀吉の側室茶々の産所とするため淀城の改修を担当する。しかし天正18年(1590年)1月頃から病が悪化、小田原征伐には参加できず畿内の留守居を務めた。10月頃に秀次が秀長の病気回復の祈願のため談山神社に訪れており(談山神社文書)、両者の関係も良かったと思われる。

天正19年1月22日[4]1591年2月15日)、秀長は郡山城内で病死した。


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