豊臣秀次
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豊臣 秀次(とよとみ ひでつぐ / とよとみ の ひでつぐ)または羽柴 秀次(はしば ひでつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名公卿官位正二位関白左大臣。2代目武家関白。豊臣秀吉の姉である瑞竜院日秀の長男。

幼少時、戦国大名浅井長政の家臣・宮部継潤が秀吉の調略に応じる際に人質となり、そのまま養子となって、初名は吉継、通称を次兵衛尉[注釈 2]とし、宮部 吉継(みやべ よしつぐ)と名乗った。次いで畿内の有力勢力だった三好一族三好康長(笑岩)養嗣子となり、今度は名を信吉と改めて通称は孫七郎とし、三好 信吉(みよし のぶよし)と名乗って三好家の名跡を継いだ。

秀吉が天下人の道を歩み始めると、羽柴姓に復氏して、名を秀次と改名。豊臣姓も下賜された。鶴松が没して世継ぎがいなくなったことから、改めて秀吉の養嗣子とされ、文禄の役の開始前に関白の職を譲られ、家督を相続した。ところがその後になって秀吉に嫡子・秀頼が誕生して、理由は諸説あるものの、秀次は強制的に出家させられて高野山青巌寺蟄居となった後に切腹となった。秀次の首は三条河原晒し首とされ、その際に眷族も尽く処刑された。
生涯.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに聚楽物語の原文があります。
生い立ち

永禄11年(1568年)、秀吉の同母姉・とも(瑞竜院日秀)と弥助(後の三好吉房)夫婦の長男として生まれた。生誕地については、江戸時代に作られた『尾張志』では尾張国知多郡大高村[注釈 11]とされているが、それを裏付ける記録はなく、父の屋敷があった貴船社[注釈 12]周辺とみられている。名は治兵衛(じへえ)[注釈 1]

元亀元年(1570年)4月、織田信長と同盟していた北近江の浅井氏が離反して朝倉氏についたことから、信長は金ヶ崎より一旦撤退した後、6月に改めて徳川家康の援軍と共に近江国へ出陣して、浅井・朝倉連合軍との姉川の戦いで勝利した。その後、浅井親子が籠城して小谷城攻めは長期化したが、陥落させた支城の横山城に入り、攻囲の責任者となったのが秀吉であった。

秀吉は小谷城の他の支城に対して次々と調略を試み、元亀3年(1572年)、宮部城[注釈 13]主の宮部継潤[注釈 14]を巧みに勧降したが、この際に継潤の安全を保障するための人質として送られたのが、秀吉の甥、当時4歳の治兵衛であった。治兵衛は、名目上、継潤の養子とされ、治兵衛の百姓名を棄て、通称を次兵衛尉、を吉継と改めて、宮部吉継を名乗ることになった。『筑後国史』によると、この時に継潤によって宮部家家臣の田中久兵衛が傅役とされたという。彼は後に吉政と名を改めたが、秀次には最も長く側近として仕えている[6]

天正元年(1573年) 9月1日、小谷城は陥落して浅井氏は滅亡した(小谷城の戦い)。信長は第一の功績は秀吉であるとして同城を与え、宮部継潤を秀吉の与力の一人とした。吉継(秀次)がいつまで宮部家の養子でいたのかわからないが、自分の臣下となった者に人質を出しておく道理がないため、天正2年(1574年)、琵琶湖沿岸に長浜城が築かれたときにはすでに羽柴氏か木下氏に復していたと考えられている[7]が、6歳の秀次がこの頃に何と名乗っていたかは不明。


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