豊臣秀吉
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織田信長の後を継いで天下を統一し、近世封建社会の基礎を築いた[5]官位従一位関白太政大臣、贈正一位

幼少期については様々な伝説があるものの明確にはなっておらず、木下藤吉郎秀吉として尾張の戦国大名織田信長に仕え、若くして織田家の有力武将となり、羽柴(はしば)に改名した。信長が支配領域を拡張する中で更に功績を上げ、長浜但馬国播磨国を領する織田家宿老の一人となった。毛利氏を討つため派遣された中国攻めの最中、信長が本能寺の変明智光秀に討たれると、急ぎ和睦してへと戻り、山崎の戦いで光秀を破った。さらに織田政権の主導権争いに勝利したことで、自らの政権を確立した(豊臣政権)。秀吉は武士として初めて関白となり、豊臣の姓を賜った。朝廷の権威を背景とした惣無事の名のもと各地の戦国大名に臣従を要求し、北条氏を降した小田原征伐により天下統一を果たした。統一後に豊臣政権は太閤検地刀狩令石高制などの全国的な政策を推し進め、全国の蔵入地鉱山収入で巨大な財力を手にした。豊臣政権は聚楽第方広寺京の大仏)・伏見城などの大規模建築の造営を行ったほか、秀吉は茶の湯・美術工芸・芸能を愛好し、その発展を促した。秀吉治世下で発展した文化は桃山文化と呼ばれる。

晩年はの征服を決意して朝鮮に出兵した(文禄・慶長の役)。その最中に実子秀頼が生まれたことで、後継と定めていた甥秀次を排除し、政権の再構築を余儀なくされた。しかしまもなく秀吉は病に倒れ、幼い秀頼を五大老五奉行に託してこの世を去った。
生涯
出自豊公誕生之地碑(名古屋市中村区、中村公園)。「#出身・家系」、「木下弥右衛門」、および「竹阿弥」も参照

秀吉の出自に関しては、通俗的に広く知られているが、史学としては諸説から確定的な史実を示すことが出来ていない。生母である大政所は秀吉の晩年まで生存しているが、父親については同時代史料に素性を示すものがない。また大政所の実名は「仲(なか)」であると伝えられているが、明確なものではない[6]

秀吉は自身の御伽衆である大村由己に伝記『天正記』を書かせているが、大村由己による秀吉の素性の説明は、本ごとに異なっている。大村は本能寺の変を記した『惟任退治記』では「秀吉の出生、元これ貴にあらず」と低い身分として描いたが、『天正記』の中の関白任官翌月の奥付を持つ『関白任官記』では、母親である大政所の父は「萩の中納言」であり、大政所が宮仕えをした後に生まれたと記述しており、天皇の落胤であることが仄めかされいる[7]。当時の公家に萩中納言という人物は見当たらず、関白就任を側面援護するために秀吉がそのように書くよう指示したとみられている[7]。また松永貞徳が著した『載恩記』にも、秀吉公が「わが母若き時、内裏のみづし所の下女たりしが、ゆくりか玉体に近づき奉りし事あり」と落胤を匂わせる発言をしたと記載されている[7][8]。しかし、これらは事実とは考えられていない[9][7][10]。一般には下層階級の出身であったと考えられている。

江戸初期に成立した『太閤素生記』によれば、秀吉は尾張国愛知郡中村郷中中村(現在の名古屋市中村区)で、足軽と伝えられる木下弥右衛門・なかの子として生まれたとされる。通俗説で父とされる木下弥右衛門[注釈 4]竹阿弥は、足軽または農民同朋衆、さらにはその下の階層ともいわれてはっきりしない。竹中重門の『豊鑑』では、中村郷の下層民の子であり父母の名も不明としている。江戸中期の武士天野信景の随筆『塩尻』には「秀吉系図」があり、国吉―吉高―昌吉―秀吉と続く名前を載せて、国吉を近江国浅井郡の還俗僧とし、尾張愛知郡中村に移住したとしている[11]。また『尾州志略』では蜂須賀蓮華寺の僧であるとし、『平豊小説』では私生児であったとしている[12]。『朝日物語』『豊臣系図』では一般に継父とされる、信長の同朋衆であった竹阿弥が実父であったとしている[12]

生年については、従来は天文5年(1536年)といわれていたが[13]、最近では天文6年(1537年)説が有力となっている。誕生日は『太閤素生記』等にある天文5年1月1日説が著名であるが[14]、実際の生誕日は『天正記』や家臣・伊藤秀盛が天正18年(1590年)に飛騨国の石徹白神社に奉納した願文の記載から天文6年2月6日とする説が有力である[1]小瀬甫庵の『太閤記』で幼名とされる日吉丸は、1月1日に生まれたことを前提に「日吉大明神」の名を受けたものとされるが、確かな資料に基づくものではなく、創作であるとみられている[15][16]

広く流布している説として、父・木下弥右衛門の死後、母・仲は竹阿弥と再婚したが、秀吉は竹阿弥と折り合い悪く、いつも虐待されており、天文19年(1550年)に家を出て、侍になるために遠江国に行ったとされる。『太閤素性記』によると7歳で実父・弥右衛門と死別し、8歳で光明寺に入るがすぐに飛び出し、15歳のとき亡父の遺産の一部をもらい家を出て、針売りなどしながら放浪したとなっている。木下も父から継いだ名字かどうか疑問視されていて、妻・ねねの母方の名字とする説もある[9]。秀吉の出自については、『改正三河後風土記』は与助という名のドジョウすくいであったとしており、ほかに村長の息子(『前野家文書』「武功夜話」)、大工・鍛冶などの技術者集団[17]や行商人[注釈 5]であったとする非農業民説[注釈 6]水野氏[注釈 7]、また漂泊民の山窩出身説[注釈 8]、などがあるが、真相は不明である。
松下家臣時代

はじめ木下藤吉郎(きのした とうきちろう)と名乗り[注釈 9]今川氏の直臣飯尾氏の配下で、遠江国長上郡頭陀寺荘(現在の浜松市中央区頭陀寺町)にあった引馬城支城の頭陀寺城主・松下之綱(加兵衛)に仕え、今川家の陪々臣(今川氏から見れば家臣の家臣の家臣)となった。藤吉郎はある程度目をかけられたようだが、まもなく退転した[注釈 10]

なお、その後の之綱は、今川氏の凋落の後は徳川家康に仕えるも、天正11年(1583年)に秀吉より丹波国河内国伊勢国内に3,000を与えられ、天正16年(1588年)には1万6,000石と、頭陀寺城に近い遠江久野城を与えられている。


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