豊臣秀吉
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家康もこれに従い、上洛して秀吉への臣従を誓った[注釈 26]。だが、結果的には秀吉は家康を軍事的に服属させることには失敗して不完全な主従関係に止まり、家康と北条氏の婚姻同盟関係は継続した。家康は北条氏と秀吉の間では依然として中立の立場を保持する一方、秀吉は徳川氏の軍事的協力と徳川領の軍勢通過の許可が無い限りは北条氏への軍事攻撃は不可能になった。そのため、秀吉は東国に対しては家康を介した「惣無事」政策に依拠せざるを得ず、西国平定を優先する政策を採ることになった[47]
九州平定とバテレン追放令詳細は「九州平定」および「バテレン追放令」を参照

その頃、九州では大友氏龍造寺氏を下した島津義久が勢力を伸ばしており、島津氏に圧迫された大友宗麟が大坂まで来て、秀吉に助けを求めた。秀吉は、島津義久と大友宗麟に朝廷権威を以て停戦命令を発したが、九州制圧を目前にしていた島津氏はこれを無視したので、秀吉は島津を討伐することを決めた。

天正14年(1587年)12月、まず大友義統への増援として、仙石秀久を軍監とした長宗我部元親・長宗我部信親十河存保らの四国勢が派遣され、豊後戸次川(現在の大野川)において島津家久と交戦したが、仙石秀久の失策により、長宗我部信親や十河存保が討ち取られるなどして敗戦を喫した(戸次川の戦い)。

天正15年(1587年)、大友氏滅亡寸前のところで豊臣秀長の軍勢が豊前小倉においた先着していた毛利輝元、宮部継潤宇喜多秀家らの軍勢と合流し豊臣軍の総勢10万が九州に到着。

同年 4月17日に日向国根城坂で行なわれた豊臣秀長軍と島津義久軍による合戦(根白坂の戦い)においては、砦の守将 宮部継潤らを中心にした1万の軍勢が空堀や板塀などを用いて砦を守備。

九州平定後、住民の強制的なキリスト教への改宗や神社仏閣の破壊といった神道・仏教への迫害、さらにポルトガル人が日本人を奴隷として売買するなどといったことが九州において行われていた@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}との讒言を天台宗の元僧侶である施薬院全宗から受けたとされ[要出典]、秀吉はイエズス会準管区長でもあったガスパール・コエリョを呼び出し、

なぜ信仰を強制するのか

なぜ牛馬を食するのか

なぜ日本人を奴隷にして売買するか

の三カ条について詰問し[48]、さらに、「何が理由でキリシタンたちは神仏の寺院を破壊し、その仏像を焼き、その他これに類する冒濱を行うのか」という詰問を行った後、バテレン追放令を発布した[49]。歴史学者の神田千里は、秀吉の詰問に対するガスパール・コエリョの返答は、第一条の信仰強制と第三条の人身売買に関して、イエズス会が日本の寺社を破壊すべくキリシタンを教唆したり、イエズス会が奴隷売買に関わっていたような事実を、故意に隠蔽したと主張した[要検証ノート] [50]

秀吉はバテレン追放令で人身売買を禁じたとされるが、実際に発布された追放令には人身売買を禁止する文が前日の覚書から削除されており、追放令発布の理由についても諸説ある[51]。追放令を命じた当の秀吉は勅令を無視し、イエズス会宣教師を通訳やポルトガル商人との貿易の仲介役として重用していた[52]。数年後にガスパール・コエリョと対象的に秀吉の信任を得られたアレッサンドロ・ヴァリニャーノは2度目の来日を許されたが、秀吉が自らの追放令に反してロザリオとポルトガル服を着用し、聚楽第の黄金のホールでぶらついていたと記述している[53]1591年インド総督大使としてヴァリニャーノに提出された書簡(西笑承兌が秀吉のために起草)によると、三教神道儒教仏教)に見られる東アジアの普遍性をヨーロッパの概念の特殊性と比較しながらキリスト教の教義を断罪した[54]。秀吉はポルトガルとの貿易関係を中断させることを恐れて勅令を施行せず、1590年代にはキリスト教を復権させるようになった[55]。勅令のとおり宣教師を強制的に追放することができず、長崎ではイエズス会の力が継続し[56]、豊臣秀吉は時折、宣教師を支援した[57]。「豊臣秀吉#バテレン追放令」も参照

同年10月1日には京都にある北野天満宮の境内と松原において千利休津田宗及今井宗久らを茶頭として大規模な茶会を開催した(北野大茶湯)。茶会は一般庶民にも参加を呼びかけた結果、当日は京都だけではなく各地からも大勢の人が参加し、会場では秀吉も参加して野点が行われた。また、黄金の茶室も披露されている。

12月、秀吉は伊達氏最上氏後北条氏など関東と奥羽の諸大名に惣無事令を発令した[58]

天正14年(1586年)『フロイス日本史』は島津氏豊後侵攻乱妨取りで拉致された領民の一部が肥後に売られていた惨状を記録している[59]。『上井覚兼日記』天正14年7月12日条によると「路次すがら、疵を負った人に会った。そのほか濫妨人などが女・子供を数十人引き連れ帰ってくるので、道も混雑していた。」と同様の記録を残している。天正16年(1588年)8月、秀吉は人身売買の無効を宣言する朱印状で豊後の百姓やそのほか上下の身分に限らず、男女・子供が近年売買され肥後にいるという。申し付けて、早く豊後に連れ戻すこと。とりわけ去年から買いとられた人は、買い損であることを申し伝えなさい。拒否することは、問題であることを申し触れること ? 下川文書、天正16年(1588年)8月

と、天正16年(1588年)閏5月15日に肥後に配置されたばかりの加藤清正小西行長に奴隷を買ったものに補償をせず「買い損」とするよう通知している。同天正16年(1588年)同様の命令があったことが島津家文書の記録として残っている。
政権の樹立・朝臣として聚楽第を構える『後陽成天皇聚楽第行幸図』

天正15年(1587年)、平安京大内裏跡(内野)に朝臣としての豊臣氏の本邸を構え「聚楽」と名付ける(フロイス『日本史』[60]、 『時慶記』[61])。この屋敷が「聚楽第(じゅらくてい・じゅらくだい)」である。

天正16年(1588年4月14日、秀吉は聚楽第に後陽成天皇を迎え華々しく饗応し、徳川家康や織田信雄ら有力大名に自身への忠誠を誓わせた(聚楽第行幸)。また、同年7月には毛利輝元が上洛し、完全に臣従した。さらに、刀狩令[62]海賊停止令を発布、全国的に施行した[63]

イエズス会の宣教師たちは、この天正16年の段階で「この暴君はいとも強大化し、全日本の比類ない絶対君主となった。」[64]「この五百年もの間に日本の天下をとった諸侯がさまざま出たが、誰一人この完璧な支配に至った者はいなかったし、この暴君がかち得たほどの権力を握った者もいなかった。」[64]と『イエズス会日本報告集』に記しており、秀吉は天正16年段階ですでに日本国の完璧な支配を達成していたとする。

後代の歴史家も同様の認識を示しており、池享は前年に九州を平定し、後陽成天皇の聚楽第行幸を成功させた天正16年に秀吉は「事実上の国王」になったとしている[65]

また堀越祐一はそれまで秀吉直臣系や旧織田系の大名のみに与えられていた羽柴氏豊臣姓の付与が天正16年頃から毛利氏、大友氏、島津氏、龍造寺氏ら秀吉に臣従した大名たちにも与えられるようになることを重要視し、この時期に豊臣政権は成立したとしている。


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