豊臣秀吉
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この戦いの最中の10月15日、秀吉は従五位下・左近衛権少将に叙位任官された[注釈 19]。秀吉が官位を得たのは筑前守就任(天正3年(1575年)7月3日)が最初とされているが、この左近衛権少将が初めての叙位任官とする説もある。秀吉は官職でも、主家の織田家を順次凌駕することになり、信雄との和議後は自らは「羽柴」の苗字を使用しなくなった[9]

なお、その後も家臣となった有力大名に対する「羽柴」の苗字下賜は続いており、例えば前田利家は天正14年(1586年)3月20日に左近衛権少将に任じられた時に秀吉から「羽柴」の苗字と「筑前守」の受領名を与えられており、秀吉のかつての名乗りであった「羽柴筑前守」が利家によって名乗られることになる[34]
関白任官と紀伊・四国・越中攻略

天正12年(1584年)11月21日、従三位権大納言に叙任され[35]、これにより公卿となった。 なお、前月に朝廷から将軍任官を勧められたが、これを断っている[36][注釈 20]

天正13年(1585年)3月10日、秀吉は正二位内大臣に叙任された。そして3月21日には紀伊国に侵攻して雑賀党を各地で破っている(千石堀城の戦い)。最終的には藤堂高虎に命じて雑賀党の首領・鈴木重意を謀殺させることで紀伊国を平定した(紀州征伐)。

四国を統一した長宗我部元親に対しても、弟の羽柴秀長を総大将、黒田孝高を軍監として10万の大軍を四国に送り込んでその平定に臨んだ。毛利輝元や小早川隆景ら有力大名も動員したこの大規模な討伐軍には元親の抵抗も歯が立たず、7月25日に降伏。元親は土佐一国のみを安堵されて許された(四国攻め四国平定)。

秀吉はこの四国討伐の最中、二条昭実近衛信輔との間で朝廷を二分して紛糾していた関白職を巡る争い(関白相論)に介入し、近衛前久猶子となり、7月11日には関白宣下を受けた。
関白辞令の宣旨[39]

權大納言藤原朝臣淳光宣、奉勅、萬機巨細、宜令?大臣關白者
天正十三年七月十一日 掃部頭兼大外記造酒正中原朝臣師廉 奉 ? 「足守木下家文書」

     右の[表示]をクリックすると読み下し文を読むことができます →権大納言藤原朝臣淳光宣(の)る。勅(みことのり)を奉(うけたまわ)るに、万機(ばんき)巨細(こさい)、宜しく内大臣をして関白にせしむべし者(といえり)。
天正13年7月11日 掃部頭兼大外記造酒正中原朝臣師廉 奉(うけたまわ)る
関白辞令の詔書
詔、以庸質當金鏡、妥政績於通三、以愚昧受瑤圖、曉コ耀於明一、夢不見良弼、誰能諫言、?大臣藤原朝臣、名翼翔朝、威霆驚世、固禁闕之藩?、忠信無私、居藤門之棟梁、奇才惟異、夫萬機巨細、百官惣己、皆先關白、然後奏下、一如舊典、庶歸五風十雨之舊日、專聽一天四海之艾寧、布告遐邇、俾知朕意、主者施行、天正十三年七月十一日 ? 「天正六年以來關白詔勅書」

     右の[表示]をクリックすると読み下し文を読むことができます →詔(みことのり)して、庸(ひととなり)を質(もち)いて金鏡に当て、政績(せいせき)通三(つうさん)に妥(やすん)ず、愚昧(ぐまい)を以て瑤図(ようず)を受け、徳耀(とくよう)明一を増す、夢良弼(りょうひつ)を見(あらわ)れざれば、誰か能く諫言を納れむ、内大臣藤原朝臣、名は朝(みかど)を翼翔(よくしょう)し、威霆(いてい)世に驚かす、禁闕の藩?を固くし、忠信私無し、藤門の棟梁に居(すわ)りて、奇才惟(ただ)異にす、夫(そ)れ万機巨細、百官を己(みずから)惣(す)べ、皆先んじて関(あずか)り白(もう)す、然る後、奏下すること一(もっぱ)ら旧典の如く、庶(もろもろ)五風十雨の旧日に帰す、専ら一天四海の艾寧(がいねい)を聴(はか)り、遐邇(かじ)に布(し)き告げて朕の意を知ら俾(し)めよ、主者施行(しゅしゃしぎょう)せよ、天正13年7月11日

8月から前年の小牧・長久手の戦いを機に反旗を翻した越中国の佐々成政に対しても討伐を開始したが(富山の役)、ほとんど戦うことなくして成政は8月25日には剃髪して秀吉に降伏している。織田信雄の仲介もあったため、秀吉は成政を許して越中新川郡のみを安堵した。こうして紀伊・四国・越中は秀吉によって平定されたのである。また年末、天正地震が中部を襲った。

閏8月末には、家康が真田領に侵攻したが、10月に秀吉が仲介に入り和睦した[40][注釈 21]

同年秋、秀吉は金山宗洗を奥羽の諸領主間の和睦と調査のために派遣した。宗洗はその後、天正14年(1586年)末から15年春と天正15年(1587年)末から16年秋の3回にわたって奥羽入りし奥羽諸領主との折衝に当たった[41]

この年に家臣の脇坂安治宛の書状で、追放した者を匿うことのないよう警告として「追放した者を少々隠しても信長の時代のように許されると思い込んでいると厳しく処罰する」としている[42][43]。「奉公構」も参照

天正14年(1586年)9月9日、秀吉は正親町天皇から豊臣の姓を賜り[注釈 22]、12月25日には太政大臣に就任し[注釈 23]、ここに豊臣政権を確立させた[注釈 24]

豊臣秀吉の読みは源頼朝平清盛らとおなじく(とよとみのひでよし)が正しいと思われる。称号(家名)は変更された形跡が無いため羽柴(もしくは近衛)のままであった。

また、富山の役に際して家康に追加の人質を要求したが、徳川家は養子しとした秀康らが人質と喧伝されていることに反発してこれを拒否、これに対して秀吉は天正14年初めの家康征伐を計画したが、天正地震によりこの計画は頓挫する。このため融和策[注釈 25]に転じて、同年5月に妹・朝日姫を家康の正室として嫁がせ、さらに9月には母・大政所を人質として家康のもとに送り、配下としての上洛を家康に促した。家康もこれに従い、上洛して秀吉への臣従を誓った[注釈 26]。だが、結果的には秀吉は家康を軍事的に服属させることには失敗して不完全な主従関係に止まり、家康と北条氏の婚姻同盟関係は継続した。家康は北条氏と秀吉の間では依然として中立の立場を保持する一方、秀吉は徳川氏の軍事的協力と徳川領の軍勢通過の許可が無い限りは北条氏への軍事攻撃は不可能になった。そのため、秀吉は東国に対しては家康を介した「惣無事」政策に依拠せざるを得ず、西国平定を優先する政策を採ることになった[47]
九州平定とバテレン追放令詳細は「九州平定」および「バテレン追放令」を参照

その頃、九州では大友氏龍造寺氏を下した島津義久が勢力を伸ばしており、島津氏に圧迫された大友宗麟が大坂まで来て、秀吉に助けを求めた。秀吉は、島津義久と大友宗麟に朝廷権威を以て停戦命令を発したが、九州制圧を目前にしていた島津氏はこれを無視したので、秀吉は島津を討伐することを決めた。

天正14年(1587年)12月、まず大友義統への増援として、仙石秀久を軍監とした長宗我部元親・長宗我部信親十河存保らの四国勢が派遣され、豊後戸次川(現在の大野川)において島津家久と交戦したが、仙石秀久の失策により、長宗我部信親や十河存保が討ち取られるなどして敗戦を喫した(戸次川の戦い)。

天正15年(1587年)、大友氏滅亡寸前のところで豊臣秀長の軍勢が豊前小倉においた先着していた毛利輝元、宮部継潤宇喜多秀家らの軍勢と合流し豊臣軍の総勢10万が九州に到着。

同年 4月17日に日向国根城坂で行なわれた豊臣秀長軍と島津義久軍による合戦(根白坂の戦い)においては、砦の守将 宮部継潤らを中心にした1万の軍勢が空堀や板塀などを用いて砦を守備。

九州平定後、住民の強制的なキリスト教への改宗や神社仏閣の破壊といった神道・仏教への迫害、さらにポルトガル人が日本人を奴隷として売買するなどといったことが九州において行われていた@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}との讒言を天台宗の元僧侶である施薬院全宗から受けたとされ[要出典]、秀吉はイエズス会準管区長でもあったガスパール・コエリョを呼び出し、

なぜ信仰を強制するのか

なぜ牛馬を食するのか

なぜ日本人を奴隷にして売買するか

の三カ条について詰問し[48]、さらに、「何が理由でキリシタンたちは神仏の寺院を破壊し、その仏像を焼き、その他これに類する冒濱を行うのか」という詰問を行った後、バテレン追放令を発布した[49]。歴史学者の神田千里は、秀吉の詰問に対するガスパール・コエリョの返答は、第一条の信仰強制と第三条の人身売買に関して、イエズス会が日本の寺社を破壊すべくキリシタンを教唆したり、イエズス会が奴隷売買に関わっていたような事実を、故意に隠蔽したと主張した[要検証ノート] [50]

秀吉はバテレン追放令で人身売買を禁じたとされるが、実際に発布された追放令には人身売買を禁止する文が前日の覚書から削除されており、追放令発布の理由についても諸説ある[51]


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