豊臣秀吉
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永禄9年(1566年)に、墨俣一夜城建設に功績を上げたとされる逸話がある[注釈 14]。また、この頃、蜂須賀正勝前野長康[注釈 15]らを配下に組み入れている。

永禄10年(1567年)の斎藤氏滅亡後、秀吉の要請により信長から竹中重治を、牧村利貞丸毛兼利と共に与力として下に付けられている(『豊鑑』)。

永禄11年(1568年)9月、近江箕作城攻略戦で活躍したことが『信長記』に記されている。同年、信長の上洛に際して明智光秀丹羽長秀らとともに京都の政務を任された。

永禄12年(1569年)5月に毛利元就が九州で大友氏と交戦(多々良浜の戦い)している隙をついて、同年6月に出雲国奪還を目指す尼子氏残党が挙兵し、以前尼子氏と同盟していた山名祐豊がこれを支援した。これに対して元就は信長に山名氏の背後を脅かすよう但馬国に出兵を依頼し、これに応じた信長は同年8月1日、秀吉を大将とした軍2万を派兵した。秀吉はわずか10日間で18城を落城させ、同年8月13日には京に引き上げた。この時、此隅山城にいた祐豊は堺に亡命したが、同年末には一千貫を礼銭として信長に献納して但馬国への復帰を許された。

元亀元年(1570年)、越前国朝倉義景討伐に従軍。順調に侵攻を進めていくが、金ヶ崎付近を進軍中に盟友であった北近江の浅井長政が裏切り、織田軍を背後から急襲した。浅井と朝倉の挟み撃ちという絶体絶命の危機であったが、秀吉は池田勝正や明智光秀と共に殿軍を務め功績をあげた(金ヶ崎の退き口[注釈 16]

そして姉川の戦いの後には、奪取した横山城の城代に任じられ、浅井氏との攻防戦に従事した(志賀の陣)。その後も小谷城の戦いでは3千の兵を率いて夜半に清水谷の斜面から京極丸を攻め落すなど浅井・朝倉との戦いに大功をあげた。

元亀4年(天正元年、1573年)7月20日には、名字を木下から羽柴に改めている(羽柴秀吉)[23]。羽柴の由来について、『豊鑑』には柴田勝家丹羽長秀から一字ずつ取ったとあるが、『豊鑑』の記述と秀吉が実際に羽柴を名乗った時期が食い違うことなどから、この説には疑問も呈されている[23]
織田政権下での台頭

天正元年(1573年)、浅井氏が滅亡すると、その旧領北近江三郡に封ぜられて、今浜の地を「長浜」と改め、長浜城の城主となる。秀吉は長浜の統治政策として年貢や諸役を免除したため、近在の百姓などが長浜に集まってきた。そのことに不満を感じた秀吉は方針を引き締めようとしたが、正妻ねねの執り成しにより年貢や諸役免除の方針をそのままとした[24]。さらに近江より人材発掘に励み、旧浅井家臣団や、石田三成などを積極的に登用した。天正2年(1574年)、筑前守に任官したと推測されている[25]

天正3年(1575年)、長篠の戦いに従軍する。天正4年(1576年)、神戸信孝と共に三瀬の変で暗殺された北畠具教の旧臣が篭る霧山城を攻撃して落城させた。

天正5年(1577年)、越後国上杉謙信と対峙している柴田勝家の救援を信長に命じられるが、秀吉は作戦をめぐって勝家と仲違いをし、無断で兵を撤収して帰還してしまった。その後、勝家らは謙信に敗れている(手取川の戦い)。信長は秀吉の行動に激怒して叱責し、秀吉は進退に窮したが、織田家当主・織田信忠の指揮下で佐久間信盛・明智光秀・丹羽長秀と共に松永久秀討伐に従軍して、功績を挙げた(信貴山城の戦い)。
播磨・但馬平定詳細は「中国攻め」を参照

天正5年(1577年)10月23日、信長に西国の雄毛利輝元毛利氏の影響下にある山陽道山陰道である中国路方面の攻略を命ぜられ、秀吉は播磨国に出陣した。播磨中の在地勢力から人質をとって、かつての播磨守護・赤松氏配下の勢力であった赤松則房別所長治小寺政職らを従える。11月中に播磨は平定できると報告して、信長より、その働きを賞賛される朱印状を送られた[26]

秀吉は更に播磨国から但馬国に攻め入った。岩洲城を攻略し、太田垣輝延の篭もる竹田城を降参させた。以前から交流のあった小寺孝高(黒田孝高)より姫路城を譲り受けて、ここを播磨においての中国攻めの拠点とする。播磨において一部の勢力は秀吉に従わなかったが上月城の戦い(第一次)でこれを滅ぼした。

天正7年(1579年)には、上月城を巡る毛利氏との攻防の末、備前美作の大名・宇喜多直家を服属させ、毛利氏との争いを有利にすすめるものの、摂津国荒木村重が反旗を翻した(有岡城の戦い)ことにより、秀吉の中国経略は一時中断を余儀なくされる。この頃、信長の四男である於次丸(羽柴秀勝)を養子に迎えることを許される。

天正8年(1580年)には織田家に反旗を翻した播磨三木城主・別所長治への攻撃が大詰めを迎える。途上において竹中重治や古田重則といった有力家臣を失うものの、2年に渡る兵糧攻めの末、これを降した(三木合戦)。

同年、播磨から再び北上して但馬に侵攻し、かつての守護山名氏の勢力を従える。最後まで抵抗していた山名祐豊(嫡男の山名氏政は落城前に羽柴家に帰参)が篭もる有子山城を攻め落とし、但馬国を織田氏の勢力圏とした。自らは播磨経営に専念するために弟である羽柴秀長を有子山城主として置き、但馬国の統治を任せた。

山名氏政を自らの勢力に取り込むことにより但馬の国人の反乱も起きず、羽柴秀長による但馬経営は円滑におこなわれた。秀長は有子山城が、あまりに急峻なため、有子山山麓の館を充実させ出石城とした。『高松城水攻築堤の図』。月岡芳年による錦絵
中国攻め

天正9年(1581年)には因幡山名家の家臣団が、山名豊国(但馬守護・山名氏政の一門)を追放した上で毛利一族の吉川経家を立てて3000の兵で鳥取城にて反旗を翻したが、秀吉は鳥取周辺の兵糧を買い占めた上で兵糧攻めを行い、これを落城させた(鳥取城の戦い)。その後も中国地方西半を支配する毛利輝元との戦いは続いた。

同年、岩屋城を攻略して淡路国を支配下に置いた。

天正10年(1582年)には備中国に侵攻し、毛利方の清水宗治が守る備中高松城を水攻めに追い込んだ(高松城の水攻め)。このとき、毛利輝元吉川元春小早川隆景らを大将とする5万の毛利軍と対峙し、信長に援軍を要請している。

このように中国攻めでは、三木の干殺し、鳥取城の飢え殺し、そして高松城の水攻めといった、金と時間はかかっても敵を確実に下して味方の勢力を温存する秀吉得意の兵糧攻めの戦術が遺憾無く発揮されている。
信長の死から清洲会議まで詳細は「本能寺の変」および「山崎の戦い」を参照

天正10年(1582年)6月2日、主君・織田信長が京都の本能寺において、明智光秀の謀反により自害した(本能寺の変)。このとき、秀吉は事件を知ると、すぐさま清水宗治の切腹を条件にして毛利輝元と講和し、備中から京都に軍を返した(中国大返し)。

6月13日、秀吉は4万の兵力で山崎にて1万6000の明智光秀軍と戦った。この戦いでは、信長の三男・信孝を初め池田恒興や丹羽長秀、さらに光秀の寄騎であった中川清秀高山右近までもが秀吉を支持したため、兵力で劣る光秀方は敗北し、光秀は落ち武者狩りにより討たれた(山崎の戦い)。秀吉はその後、光秀の残党も残らず征伐し、京都における支配権を掌握した。


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