豊臣秀吉
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秀吉の出自については、『改正三河後風土記』は与助という名のドジョウすくいであったとしており、ほかに村長の息子(『前野家文書』「武功夜話」)、大工・鍛冶などの技術者集団[17]や行商人[注釈 5]であったとする非農業民説[注釈 6]水野氏[注釈 7]、また漂泊民の山窩出身説[注釈 8]、などがあるが、真相は不明である。
松下家臣時代

はじめ木下藤吉郎(きのした とうきちろう)と名乗り[注釈 9]今川氏の直臣飯尾氏の配下で、遠江国長上郡頭陀寺荘(現在の浜松市中央区頭陀寺町)にあった引馬城支城の頭陀寺城主・松下之綱(加兵衛)に仕え、今川家の陪々臣(今川氏から見れば家臣の家臣の家臣)となった。藤吉郎はある程度目をかけられたようだが、まもなく退転した[注釈 10]

なお、その後の之綱は、今川氏の凋落の後は徳川家康に仕えるも、天正11年(1583年)に秀吉より丹波国河内国伊勢国内に3,000を与えられ、天正16年(1588年)には1万6,000石と、頭陀寺城に近い遠江久野城を与えられている。
織田家に仕官『稲葉山の月』。月岡芳年による浮世絵連作『月百姿』中の一枚。

天文23年(1554年)頃から織田信長小者として仕える[注釈 11]清洲城普請奉行、台所奉行などを率先して引き受けて大きな成果を挙げるなどし、次第に織田家中で頭角を現していった。また、有名な逸話として信長の草履取りをした際に冷えた草履を懐に入れて温めておいたことで信長は秀吉に大いに嘉(よみ)した[注釈 12]

永禄4年(1561年)8月[18]浅野長勝の養女で杉原定利の娘・ねねと結婚する。ねねの実母・朝日はこの結婚に反対したが、ねねは反対を押し切って嫁いだ[注釈 13]。結婚式は藁と薄縁を敷いて行われた質素なものであった[19]桑田忠親は浅野長勝も秀吉も足軽組頭であり、同じ長屋で暮らしていたので、秀吉は浅野家の入り婿の形でねねと婚姻したのではないかとしている[20]

永禄7年(1564年)、美濃国斎藤龍興との戦いの中で、松倉城主の坪内利定鵜沼城主の大沢次郎左衛門らに誘降工作を行い成功させた[21]

秀吉の名が現れた最初の史料は、永禄8年(1565年)11月2日付けの坪内利定宛て知行安堵状であり、「木下藤吉郎秀吉」として副署している(坪内文書)[9]。このことは、秀吉が信長の有力武将の一人として認められていたことを示している[22]

永禄9年(1566年)に、墨俣一夜城建設に功績を上げたとされる逸話がある[注釈 14]。また、この頃、蜂須賀正勝前野長康[注釈 15]らを配下に組み入れている。

永禄10年(1567年)の斎藤氏滅亡後、秀吉の要請により信長から竹中重治を、牧村利貞丸毛兼利と共に与力として下に付けられている(『豊鑑』)。

永禄11年(1568年)9月、近江箕作城攻略戦で活躍したことが『信長記』に記されている。同年、信長の上洛に際して明智光秀丹羽長秀らとともに京都の政務を任された。

永禄12年(1569年)5月に毛利元就が九州で大友氏と交戦(多々良浜の戦い)している隙をついて、同年6月に出雲国奪還を目指す尼子氏残党が挙兵し、以前尼子氏と同盟していた山名祐豊がこれを支援した。これに対して元就は信長に山名氏の背後を脅かすよう但馬国に出兵を依頼し、これに応じた信長は同年8月1日、秀吉を大将とした軍2万を派兵した。秀吉はわずか10日間で18城を落城させ、同年8月13日には京に引き上げた。この時、此隅山城にいた祐豊は堺に亡命したが、同年末には一千貫を礼銭として信長に献納して但馬国への復帰を許された。

元亀元年(1570年)、越前国朝倉義景討伐に従軍。順調に侵攻を進めていくが、金ヶ崎付近を進軍中に盟友であった北近江の浅井長政が裏切り、織田軍を背後から急襲した。浅井と朝倉の挟み撃ちという絶体絶命の危機であったが、秀吉は池田勝正や明智光秀と共に殿軍を務め功績をあげた(金ヶ崎の退き口[注釈 16]

そして姉川の戦いの後には、奪取した横山城の城代に任じられ、浅井氏との攻防戦に従事した(志賀の陣)。その後も小谷城の戦いでは3千の兵を率いて夜半に清水谷の斜面から京極丸を攻め落すなど浅井・朝倉との戦いに大功をあげた。

元亀4年(天正元年、1573年)7月20日には、名字を木下から羽柴に改めている(羽柴秀吉)[23]。羽柴の由来について、『豊鑑』には柴田勝家丹羽長秀から一字ずつ取ったとあるが、『豊鑑』の記述と秀吉が実際に羽柴を名乗った時期が食い違うことなどから、この説には疑問も呈されている[23]
織田政権下での台頭

天正元年(1573年)、浅井氏が滅亡すると、その旧領北近江三郡に封ぜられて、今浜の地を「長浜」と改め、長浜城の城主となる。秀吉は長浜の統治政策として年貢や諸役を免除したため、近在の百姓などが長浜に集まってきた。そのことに不満を感じた秀吉は方針を引き締めようとしたが、正妻ねねの執り成しにより年貢や諸役免除の方針をそのままとした[24]。さらに近江より人材発掘に励み、旧浅井家臣団や、石田三成などを積極的に登用した。天正2年(1574年)、筑前守に任官したと推測されている[25]

天正3年(1575年)、長篠の戦いに従軍する。天正4年(1576年)、神戸信孝と共に三瀬の変で暗殺された北畠具教の旧臣が篭る霧山城を攻撃して落城させた。

天正5年(1577年)、越後国上杉謙信と対峙している柴田勝家の救援を信長に命じられるが、秀吉は作戦をめぐって勝家と仲違いをし、無断で兵を撤収して帰還してしまった。その後、勝家らは謙信に敗れている(手取川の戦い)。信長は秀吉の行動に激怒して叱責し、秀吉は進退に窮したが、織田家当主・織田信忠の指揮下で佐久間信盛・明智光秀・丹羽長秀と共に松永久秀討伐に従軍して、功績を挙げた(信貴山城の戦い)。
播磨・但馬平定詳細は「中国攻め」を参照

天正5年(1577年)10月23日、信長に西国の雄毛利輝元毛利氏の影響下にある山陽道山陰道である中国路方面の攻略を命ぜられ、秀吉は播磨国に出陣した。播磨中の在地勢力から人質をとって、かつての播磨守護・赤松氏配下の勢力であった赤松則房別所長治小寺政職らを従える。


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