豊臣秀吉
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ところが当時の毛利氏が高松城救援に用意できた兵力は羽柴軍の半分の15,000ほどでしかなく[注釈 56]、救援は不要であった。信長は三職推任問題や皇位継承問題などで朝廷と頻繁に交渉していたため上洛していた。明智光秀はそこを狙って本能寺の変を起こしたが、軍勢を集める理由が問題であった。ところが秀吉の救援要請で援軍に赴くように命じられたため、信長に疑われることなく軍勢を集め、その軍勢で光秀は京都の信長を討ち果たす。光秀が近衛前久と内通していた説があるように、秀吉も大納言の勧修寺晴豊らと内通しており、その筋から光秀の謀反計画を知り、要請を行ったとされる。

また、秀吉の中国大返しに関しても、沼城から姫路城まで70キロの距離をわずか1日で撤収しており、秀吉が優秀だったとはいえ、事前に用意をしていなければ不可能なこと、中国大返し後の織田方有力武将への切崩しの異常な速さ、変を知らせる使者は本当に毛利方と間違えて秀吉の陣に入ってきたのか、変後の毛利方との迅速な講和は事前に信長が討たれることを見越して秀吉が小早川隆景・安国寺恵瓊などへ根回しを行っていた結果なのか、など疑惑が持たれている。

上記の説についての反論には以下のものがある。

信長公記』によれば、高松城への援軍、西国への出陣を立案したのは信長自身であり、秀吉は毛利家主力の出陣を報告したのみで、秀吉側から援軍の要請があったという記述はない。

『浅野家文書』には毛利軍5万人と記されており、秀吉は初期情報のこの数字を元に信長の援軍を請求した。

秀吉の援軍要請は、手柄を独占することによって信長に疑念を持たれるのを避ける(信長自身を招いて信長に手柄を譲る)ための保身であり、有利な状況でありながら援軍を求める必然性は存在する(『常山記談』)。

本能寺の変直後の6月3日には、江北周辺の武田元明京極高次らの武将は光秀に呼応し秀吉の居城である長浜城を接収し、同城には光秀の重臣である斎藤利三が入城している。また、長浜にいた秀吉の家族らは本能寺の急報を聞き、美濃へ避難している(『言経卿記』・『豊鑑』)。このことから、光秀と秀吉に先立っての接触があったとは考えづらい。

もし秀吉が光秀と共謀していたなら、山崎の合戦で光秀はそのことを黙って討たれたことになる。共謀が事実ならばそれを公表することで秀吉は謀反の一味となり、他の織田旧臣や信孝ら織田一族との連合は不可能となり、光秀方に有利な情勢を作り出せた。

当時の武士から見ても不自然な状況であったり、連携を疑わせる情報が流れていれば、後に秀吉と敵対した織田信雄・信孝・柴田勝家・徳川家康などがそれを主張しないのは不自然である。

明智光秀の援軍は、対毛利戦線の山陰道方面に対してのものであり、秀吉が現在戦っている山陽道方面ではない。

事前の用意については、中国大返しは信長自身による援軍を迎えるための準備が、功を奏したもので、当時、中国大返しを疑問視した発言や記録はない。そもそも沼城から姫路城まで、わずか1日で70キロ走破とは、事前の準備があってもあり得ない。実際には1日で撤収したのは最初に姫路城に到着した騎馬武者であり、徒歩の兵士を含めての全てが姫路城まで到着するには、もっと時間がかかっている(『天正記』・「惟任謀叛記」)。

本能寺の変を知った吉川元春は和睦を反古にして秀吉軍を攻撃することを主張したが、小早川隆景らの反対[注釈 57]によって、取り止めになっている。一歩間違えば、秀吉は毛利勢と明智勢の挟み撃ちにあった恐れが大であり、現に滝川一益のように本能寺の変が敵方に知られたことにより大敗し、領土を失った信長配下の武将も存在しており、秀吉がこのような危険を謀略としてあえて意図したとは考えにくい。

また迅速な撤収も、沼城から姫路城までに限られており、それ以降の光秀との決戦までの行軍は常識的な速度である。姫路城までの迅速な撤収は毛利の追撃を恐れての行動であり、姫路城からは上方の情報収集や加勢を募っての行軍であった。これは、事前に用意した上での行動というよりは、予期せぬ事態への対処とみるのが妥当である。更に秀吉の撤退、毛利の追撃、いずれにしても、両勢力の境目にあり、備前・美作を支配する宇喜多氏の動向が不透明であったことも考慮する必要がある。

なお、「豊臣秀吉黒幕説」は、数多い「本能寺の変黒幕説」のひとつに過ぎない(黒幕候補は他にも存在する)し、また「本能寺の変黒幕説」そのものが、明智光秀の謀反の理由として推測されるひとつに過ぎないことは留意する必要がある。明智光秀の謀反の動機が不明で、現在に至るまで定説が確立していないことが、光秀自身以外に動機を求める「豊臣秀吉黒幕説」を含めた黒幕説を生み出す要因となっている。
政策詳細は「豊臣政権」を参照
朝臣体制

秀吉は天皇・朝廷の権威を自身の支配のために利用したというのが定説である。

秀吉は関白の地位を得ると、諸大名に天皇への臣従を誓わせることによって、彼らを実質的に自分の家臣とした。織田家との主従関係はこれによって逆転している。また、天皇の名を使って惣無事令などの政策を実行し、これに従っていないということを理由として九州や関東以北を征服するなど、戦いの大義名分作りに利用している。これらの手法は、かつて織田信長が足利義昭の将軍としての権威をさまざまに利用したことや、義昭と対立した際に朝廷と接近したことと共通するものである。

さらに秀吉は、関白としての支配を強固にするため、本来は公家のものであった朝廷の官位を自身の配下たちに次々と与え、天皇を頂点とした体制に組み入れた。この方策・体制は「武家関白制」などと呼ばれる。

このように秀吉の地位は天皇の家臣であったが、実質的な日本の支配者は秀吉であったことがさまざまな史料から読み取れる。秀吉が事実上の権力者として政治を行っていることから、摂関政治の一種と解釈されることがある。

天下統一をなしとげた上、天皇・朝廷の権威まで加わったので、秀吉の権力は絶大だったが、一方では天皇の権威を借りているために、政権に不安要素も抱えることになってしまった。後に豊臣秀頼が関白になれなかったことは、徳川家による政権奪取や豊臣家滅亡の一因となった。

また秀吉は、誠仁親王の第六王子・八条宮智仁親王猶子とし、親王宣下を受けさせていた[注釈 58]。智仁親王が天皇に即位すれば、秀吉は天皇家の外戚として権力を振るうことも可能なはずであった。しかし智仁親王の即位前に秀吉は没してしまい、その後、智仁親王の即位は徳川家康によって阻止された。
国内統治システム豊臣秀吉が鋳造させた天正大判。「身分統制令」、「検地」、および「農奴制」も参照

秀吉は惣無事令を出して大名間における私戦を禁じた。また、武士以外の僧侶や農民などから武器の所有を放棄させることを全国単位で行う刀狩令、私的な武力行使を制御することを目的とした喧嘩停止令、海賊行為に対しても海賊停止令を発布し、国内における私的な武力抗争を抑制した。これらをまとめて豊臣平和令と呼ぶ場合がある。また、これらの私的な武力抗争の抑止は、あくまで関白として天皇の命令(勅定)によって私闘禁止(天下静謐)を指令するという立場を掲げて行われた。

各地方に対しては天下人としての統一を行った上で全国で検地が行われた。これは太閤検地と呼ばれている。同時に日本全国の税制を石高制に統一し、国家予算の算定と税制が定められた。また、楽市楽座等[注釈 59]、関所の廃止[注釈 60]等も継続して行い、調整を加えつつ全国的に広げていった。職業軍人と農民を分ける兵農分離、百姓の逃散禁止、朱印船貿易、貨幣鋳造なども進めた。

豊臣政権下では一般に、年貢は農民にとって過酷な二公一民(収穫の3分の2が年貢)とされていたといわれる。これは善政で知られた後北条氏の四公六民(収穫の5分の2が年貢)[164]と比べて重いように思われるが、二公一民というのはあくまでも年貢納入をめぐる紛争の解決の際の損免規定の設定であり、年貢免率決定権は個々の領主が握って自主的に決めており、一律に定められていたわけではない[165]

豊臣政権は兵農分離態勢を確立するために太閤検地、人身売買禁止令、人返し令、武家奉公人身分統制等の政策を推進したが、これらの政策によって生産構造が奴隷制から農奴制に移行したとみなされ、中世から近世への時代区分になったとされている[166][167]。「人身売買禁止令は、中世奴隷制から近世農奴制へと日本社会を発展させた革命的な政策の一つと見なされることになった」[168]

秀吉の政策は江戸幕府に継承されていったため、江戸時代の基礎を築いたとも言われるが、「信長までは中世であり、秀吉から近世が始まる」と言う研究者もいれば(脇田修佐々木潤之介)、これに否定的な研究者もいる[169][170]鎌田道隆は織田政権と豊臣政権の間、あるいは豊臣政権と徳川政権の間に中世と近世の境があるのではなく、豊臣政権の途中で中世から近世に移行したとしている[171]。ちなみに東京大学史料編纂所では、慶長8年(1603年)の江戸幕府の成立から明治4年(1871年)の廃藩置県までを近世に分類している[注釈 61]
宗教政策
仏教「京の大仏」も参照『豊国祭礼図屏風』慶長11年(1606年) 狩野内膳作で方広寺大仏殿が描かれている。他の絵図に描かれた豊臣秀頼再建の方広寺大仏殿と、観相窓上部の破風の意匠などが異なって描かれており、絵師のミスでなければ秀吉の造立した方広寺初代大仏殿を描いたものとされる[172][参考] 東寺金堂。金堂は豊臣秀頼の寄進で建立されたが、方広寺初代大仏殿を模して建立されたとの伝承がある[173]。金堂の中央には大仏殿のように観相窓(外部から内部に安置される本尊の御顔を拝顔できるようにする窓)があるが、それを開放しても安置される薬師如来の御顔の高さと合っておらず、如来の光背しか見えない[173]


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