様々な説が唱えられており、脳梅毒、大腸癌、痢病(赤痢・疫痢の類)[143]、尿毒症、脚気[144]、腎虚[145]、感冒(そのため藤堂高虎と同様に桔梗湯を処方された[146])などがある。50代後半頃からは、老衰のためか無意識のうちに失禁したこともあったと記録されている[147]。沈惟敬による毒殺説もある[注釈 49]。
なお同時代人には「秀吉公は、善光寺如来を方広寺大仏殿へ遷座したことによる祟りで落命された」と認識されていたことは既述の通りである(後述#宗教政策も参照)。
逸話豊臣秀吉の花押.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに老人雑話
人の心を掴む天才とされており、「人たらし」と称せられる。度量の大きさでも知られ、九州の役において降伏した島津義久に対し、丸腰の義久に自らの佩刀を与え、また小田原征伐で遅参した伊達政宗に佩刀を預け石垣山の崖上で二人きりになった。両名とも隙だらけでありながら秀吉の度量に気を呑まれ斬りつけることは出来なかったという。他にも小牧・長久手の戦いの後に上洛した徳川家康の下を近習一人をつれて密かに訪れ、数万の徳川兵の中で酒を交わしながら翌日の拝謁の打ち合わせをした。また家康の片腕であり秀吉との折衝役であった石川数正が出奔した際、自らの配下とした[148][149][150]。
賤ヶ岳の戦いの最中、熱暑に苦しむ負傷兵に秀吉は農家から大量の菅笠を買い敵味方の区別なく被せて回り、「誠に天下を治め給うほどの大将はかく御心の付き給うものかな」とも評価される(『賤ヶ岳合戦記』)。また賤ヶ岳の戦い後、小早川隆景に書状で「無精者は成敗すべきであるが、人を斬るのは嫌いだから命を助け領地も与える」と報じている。ほかにも関白就任後、秀吉が可愛がっていた鶴が飼育係の不注意から飛んで逃げた。飼育係は、打ち首覚悟で秀吉に隠さずに報告したが、「日本国中がわしの庭じゃ。なにも籠の中におらずとも、日本の庭におればよい」と笑って許したという(『名将言行録』[151])。
小田原征伐の際、鎌倉の鶴岡八幡宮の白旗の宮を訪ね、源頼朝の木像[注釈 50]に向かい「小身から四海を平定し天下を手中にしたのは貴方とこのわしだけであり、我らは天下友達である。しかし貴方は御門(みかど)の御後胤で、父祖は東国の守護であり、故に流人の身から挙兵しても多くの者が従った。わしは、元々は卑賤の出で、氏も系図もない男だ。だからこのように天下を平定したことは、貴方よりわしの功が優れている」と木像の肩を叩きながら言ったという(『川角太閤記』[152])。
秀吉は「大気者」だったともいわれているが、狭量な面もあり、世評を気にした。北野大茶会や華美な軍装などの人々の評判が上がる行為を頻繁に行った。一方、聚楽第に自身を非難する落書が書かれた際は、犯人を探索し7人を鼻削ぎ耳切りにした上で倒磔に処したのち、老若男女63人を磔、最終的には130人に刑罰を下している(『鹿苑日録』[153])。人を殺すことを嫌う人物とされる秀吉であるが、実際には元亀2年(1571年)に湖北一向一揆を殲滅したり(『松下文書』『信長公記』)、天正5年(1577年)に備前・美作・播磨の国境付近で毛利氏への見せしめのために、子供は串刺しに、女は磔にして200人以上処刑している(同年12月5日の羽柴秀吉書状)。
母・大政所への孝養で知られる。小牧・長久手の戦いの後、家康を上洛させるため母と妹を人質として家康に差し出したが、そこで母を粗略に扱った本多重次を後に家康に命じて蟄居させている。天下人としての多忙な日々の中でも、正室・北政所や大政所本人に母親の健康を案じる手紙をたびたび出している[154]。朝鮮出兵のために肥前名護屋に滞在中、母の危篤を聞いた秀吉は急いで帰京したが、臨終には間に合わず、ショックのあまり卒倒し、しばらくはまともに喋ることもできなかった[155]。大政所の三回忌では「なき人の形見の髪を手に触れ包むに余る涙悲しも」という句を詠んでいる[156]。
戦国大名は主君と臣下の男色(衆道)を武士の嗜みとしていた[注釈 51]が、武士出身ではない秀吉は衆道への関心がなかった。当時比類なき美少年と評判だった小姓の羽柴長吉に対しても「お前に姉か妹はいるか?」と聞いただけだったと言われる(『 老人雑話』[157])。
ルイス・フロイスは、秀吉の外見以外については、
優秀な武将で戦闘に熟練していたが、気品に欠けていた。
極度に淫蕩で、悪徳に汚れ、獣欲に耽溺していた。
抜け目なき策略家であった。
彼は本心を明かさず、偽ることが巧みで、悪知恵に長け、人を欺くことに長じているのを自慢としていた。
ほとんど全ての者を汝(うぬ)、彼奴(きゃつ)呼ばわりした。
などと記している。
上杉謙信と対決するために北陸へ出兵した際、軍議で大将の柴田勝家に反発し、勝手に領地へ引き上げ、この無断撤退は信長の怒りを買った[注釈 52]。また中国攻めでも、宇喜多直家の寝返り・所領安堵を信長の許可なく勝手に認めてしまい、再び信長に怒られている。
信長に対しては尊敬の念はたいしてもっていなかったようで、信長死後、織田氏から政権を奪い取って自らの豊臣政権を打ち立てたり、その過程で信長の息子達を領地没収(信雄)・切腹させる(信孝)など冷遇したり、信長の肖像画の服装が地味な色に塗り替えられたり、家臣脇坂安治に宛てた書状で尊称を使わず「信長」と呼び捨てにしている[158]。 人と同じに振る舞うことを嫌う、傾奇者だった。何回か開いた仮装茶会(名護屋城の仮装茶会が有名)では、参加する武将達にわざと身分の低い者の格好をしてくるように通達し、自身も瓜売りの姿で参加した。
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