豊臣秀吉
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つまりそれ以前は苗字を名乗る地盤すら持たない階層だった可能性が指摘されている[注釈 43]

フロイス日本史』では「若い頃は山で薪を刈り、それを売って生計を立てていた」、『日本教会史』には、秀吉は「木こり」出身と書かれている。また小説家の八切止夫は、秀吉は「端柴売り」出身で、わざとそのことを示す羽柴(=端柴)に改姓し、自分が本来低い身分なのだとアピールすることによって周囲からの嫉妬を避けようとしたのだと推測している。小説家の井沢元彦は「当時の西洋人からは端柴売りが木こりに見えたのだろう」と両者を整合する説をとっている[注釈 44]

小牧・長久手の戦いの際には、徳川家康の重臣榊原康政が、「羽柴秀吉は野人の子、もともと馬前の走卒に過ぎず。しかるに、信長公の寵遇を受けて将師にあげられると、その大恩を忘却して、子の信孝公を、その生母や娘と共に虐殺し、今また信雄公に兵を向ける。その大逆無道、目視する能わず、我が主君源家康は、信長公との旧交を思い、信義を重んじて信雄公を助けんとして決起せり。」と秀吉の出自にからめて批判する檄文を発したという[121]

秀吉は他の大名と同様に側室を置いていたが[注釈 45]、正室であるねねとの間にも、側室との間にも子供が生まれず、実子の数は生涯を通じても非常に少なかった。秀吉との間に子供ができなかった側室達には、前夫との間に既に子供がいた者、秀吉と離縁あるいは死別し再婚してから子供ができた者が幾人かいる。そのため秀頼は秀吉の子ではなく、淀殿が大野治長など他の者と通じて成した子だとする説がある。これについては、秀頼だけでなく鶴松の時点でそうした噂があった[122]

秀吉は子宝に恵まれなかったが、実は長浜城主時代に1男1女を授かっていたという説がある。男子は南殿と呼ばれた女性の間に生まれた子で、幼名は石松丸、後に秀勝といったらしい。長浜で毎年4月(昔は10月)に行われる曳山祭は、男子が生まれたことに喜んだ秀吉から祝いの砂金を贈られた町民が、山車を作り長浜八幡宮の祭礼に曳き回したことが始まりと伝えられている。石松丸秀勝は夭折したが、その後秀吉は次々と二人の養子に秀勝の名を与えている(於次秀勝小吉秀勝)。長浜にある妙法寺には、伝羽柴秀勝像という子の肖像画や秀勝の墓といわれる石碑、位牌が残っている。女子の方は名前その他の詳細は一切不明だが、長浜市内にある舎那院所蔵の弥陀三尊の懸仏の裏に「江州北郡 羽柴筑前守殿 天正九年 御れう人 甲戌歳 奉寄進御宝前 息災延命 八月五日 如意御満足虚 八幡宮」という銘記があり、これは秀吉が天正2年(1574年)に生まれた実娘のために寄進したものだと伝わっている[123]。ただし今日舎那院では、これが秀吉の母・大政所のために寄進されたものであると説明している。しかし『多聞院日記』によれば、大政所は文禄元年(1592年)に76歳で死去しているので年代に齟齬が生じる(「御れう人」とは麗人のことであり、76歳の老人にまで解釈が及ぶものかどうか疑問であり、秀吉に女児が生まれたと考える方が自然と思われる)。
名称

婚姻により妻おねの姓・木下氏を名乗り、後に羽柴氏に改める[124]。諸系図に源氏平氏を称したように書かれているが、近衛家猶子となって藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓されて本姓とした。下賤・貧困層出身と少年期での父亡き子を隠していない[125]朝鮮国王宛のへの侵攻や、台湾フィリピンへの服属と入貢要求で、朱印状で日輪による受胎での「日輪の子」を名乗り、侵攻・支配要求への根拠とした[126]大村由己関白任官記に見られる秀吉は母方の祖父を「萩の中納言」とする公家の血筋であり、また「大政所が宮仕えをした後に生まれた」という表現は、明言はされていないが天皇の落胤をうかがわせるものであるが、事実とは考えられていない(出自参照)。

しばしば誤って羽柴から豊臣に改姓したといわれるが、羽柴は苗字、豊臣は姓(氏姓本姓)であり、身分が高くなりすぎたために名乗る機会が無くなっただけで、苗字は死ぬまで羽柴だったと考えられる[127]。源頼朝や藤原道長をみなもと-の-よりとも、ふじわら-の-みちなが、と「の」を挟んで読むが徳川家康織田信長はそうでないのは、前者が姓で後者は苗字だからだという理解からは、豊臣秀吉も、とよとみ-の-ひでよしと読むのが正しいのではないかという説が唱えられている(岡野友彦[128]。1583年(天正11年)のイエズス会による外語表記はFaxiba Chiquiendono(羽柴筑前殿)[129]
容姿
猿面
「猿面冠者」という言葉が残るように、秀吉は、その容姿から
と呼ばれた。『太閤素生記』では秀吉の幼名を「猿」とし、また秀吉の父が亡くなったとき、秀吉に金を遺した一節に「父死去ノ節猿ニ永楽一貫遺物トシテ置ク」とある。また松下之綱は「猿ヲ見付、異形成ル者也、猿カト思ヘバ人、人カト思ヘバ猿ナリ」と語っている。毛利家家臣の玉木吉保は「秀吉は赤ひげで猿まなこで、空うそ吹く顔をしている」と記している。秀吉に謁見した朝鮮使節は「秀吉が顔が小さく色黒で猿に似ている」としている(『懲録』)。ルイス・フロイスは「身長が低く、また醜悪な容貌の持ち主で、片手には6本の指があった。目が飛び出ており、シナ人のようにヒゲが少なかった」と書いている[130]。また、秀吉本人も「皆が見るとおり、予は醜い顔をしており、五体も貧弱だが、予の日本における成功を忘れるでないぞ」と語ったという[131]。秀吉が猿と呼ばれたのは、関白就任後の落書「まつせ(末世)とは別にはあらじ木の下のさる関白」[注釈 46]に由来するという説もある。また山王信仰(猿は日吉大社の使い)を利用するため「猿」という呼び名を捏造したとの説もある[132]
禿げ鼠
織田信長筆仮名消息(重要美術品、個人蔵)。ねね宛ての書状で、19行目に秀吉を指して「はげねすミ」(禿げ鼠)とある。「禿げ鼠」の呼び名は、信長がねねへ宛てた書状の中で秀吉を叱責する際に「あの禿げ鼠」と書かれているものが現存している(現在は個人蔵)[133]。ただ、普段でもそう呼ばれていたかどうかは不明。
六本指
秀吉は指が1本多い多指症だったという記録がある(『フロイス日本史』)。右手の親指が1本多く、信長からは「六ツめ」とも呼ばれていた(『国祖遺言』[注釈 47])。多くの場合、幼児期までに切除して五指とするが、秀吉は周囲から奇異な目で見られても生涯六指のままで、天下人になるまではその事実を隠すこともなかったという。しかし天下人となった後は、記録からこの事実を抹消し、肖像画も右手の親指を隠す姿で描かせたりした。そのため、「秀吉六指説」は長く邪説扱いされていた。現在では六指説を真説とする考えが有力であるが、このことに触れない秀吉の伝記は多い[注釈 48]。なお『国祖遺言』のこのくだりを紹介した三上参次は、「又『國祖(前田利家)遺言』といふ書には、太閤には右の手の指が六本あったといふ説が載って居りますが、如何ですか、他に正確なる書にはまだ見當りませぬ。」[134]と記載している。井沢元彦は自著[135]の中で、『国祖遺言』の存在を初めて指摘したのは松田毅一[136]であると記載しているが、松田が指摘するよりも前に三上が指摘をしている。さらに三上が指摘をした翌年には幸田成友も秀吉の多指症について言及している[137]の『看羊録』にも秀吉の右手が六本指であったと記録されているが、この記録には秀吉が成長した時に自ら刀で指を切り落としたと記載されている[138][139][140]服部英雄は『国祖遺言』を活字化しており、以下の通りである[141]。大閤様は右之手おやゆひ一ツ多、六御座候、然時蒲生飛騨殿肥前様金森法印御三人しゆらくにて大納言様へ御出入ませす御居間のそは四畳半敷御かこいにて夜半迄御咄候、其時上様ほとの御成人か御若キ時六ツゆひを御きりすて候ハん事にて候ヲ、左なく事ニ候、信長公大こう様ヲ異名に六ツめか、なとヽ、御意候由御物語共候、色々御物語然之事[142]
死因

様々な説が唱えられており、脳梅毒大腸癌、痢病(赤痢・疫痢の類)[143]尿毒症脚気[144]腎虚[145]感冒(そのため藤堂高虎と同様に桔梗湯を処方された[146])などがある。


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