豊臣秀吉
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慶長4年(1599年)4月13日には伏見城から遺骸が運ばれ阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬された(『義演准后日記』『戸田左門覚書』)[注釈 37]。4月18日に遷宮の儀が行われ、その際に「豊国神社」と改称された。これに先立つ4月16日、朝廷から「豊国大明神(ほうこくだいみょうじん)」の神号が与えられた(『義演准后日記』)。これは日本の古名である「豊葦原瑞穂国」を由来とするが、豊臣の姓をも意識した[113]ものとの見方がある[110]。4月19日には正一位の神階が与えられた。神として祀られたために葬儀は行われなかった[注釈 38][注釈 39]

豊臣家の家督は秀頼が継ぎ、五大老や五奉行がこれを補佐する体制が合意されている。また、五大老や五奉行によって朝鮮からの撤兵が決定された。当時、日本軍は、攻撃してきた明・朝鮮軍に第二次蔚山城の戦い、泗川の戦い、順天城の戦いなどで勝利していたが、撤退命令が伝えられると明軍と和議を結び、全軍朝鮮から撤退した。秀吉の死は秘密にされたままであったが、その死は徐々に世間の知るところとなった。朝鮮半島での戦闘は、朝鮮の国土と軍民に大きな被害をもたらした。日本でも、征服軍の中心であった西国大名達が消耗し、秀吉没後の豊臣政権内部の対立の激化を招くことになる。

辞世の句は、「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢」。
年表

和暦西暦[注釈 40]月日[注釈 40]数え年内容
天文6年1537年2月6日(1月1日説もあり)1歳誕生(天文5年説もあり)
天文23年ごろ1554年-1555年ごろ18歳織田信長に仕官
永禄4年1561年8月25歳浅野長勝の養女(高台院、ねね)と結婚。
永禄11年1568年9月12日32歳観音寺城の戦い
元亀元年1570年4月34歳金ヶ崎の戦い
元亀3年1572年8月ごろ36歳羽柴改姓
天正元年1573年8月8日-9月1日37歳小谷城の戦い
天正3年1575年7月3日39歳筑前守
天正5年1577年9月23日41歳手取川の戦い
10月5日-10日信貴山城の戦い
天正6年1578年3月29日42歳三木合戦開始( - 天正8年1月17日)
4月18日-7月3日上月城の戦い
天正10年1582年4月-6月4日46歳備中高松城の戦い
6月2日本能寺の変が起こる
6月13日山崎の戦い
6月27日清洲会議
天正11年1583年4月47歳賤ヶ岳の戦い
11月本拠を大坂城に移転。
天正12年1584年3月-11月48歳小牧・長久手の戦い
10月3日従五位下・左近衛権少将[注釈 41]
11月21日従三位・権大納言
天正13年1585年3月-4月49歳紀州征伐
3月10日正二位、内大臣宣下
6月-8月四国攻め
7月近衛前久の猶子となる、藤原改姓
7月11日従一位・関白宣下、内大臣如元
8月富山の役
10月惣無事令実施(九州地方)
天正14年1586年7月50歳九州征伐開始( - 天正15年4月)
9月9日賜豊臣氏[116]
1587年12月19日内大臣辞職
12月25日太政大臣兼帯
天正15年1587年5月9日51歳書状「かうらい国へ御人」
6月1日書状「我朝之覚候間高麗国王可参内候旨被仰遣候」
6月19日バテレン追放令発布
9月聚楽第へ転居
10月北野大茶湯
1587年または1588年12月惣無事令実施(関東・奥羽地方)
天正16年1588年7月8日52歳刀狩令発布。ほぼ同時に海賊停止令も発布。
8月12日島津氏を介し琉球へ服属入貢要求
聚楽第行幸
天正17年1589年5月27日53歳鶴松が誕生。鶴松を後継者に指名。
天正18年1590年2月-7月54歳小田原征伐
2月28日琉球へ唐・南蛮も服属予定として入朝要求
7月奥州仕置
11月朝鮮へ征明を告げ入朝要求
天正19年1591年55歳身分統制令制定。御土居構築と京の街区の再編成着手
2月28日千利休に切腹を命ず
3月3日天正遣欧少年使節が聚楽第において秀吉に西洋音楽(ジョスカン・デ・プレの曲)を演奏
7月25日ポルトガル領インド副王に宛ててイスパニア王の来日を要求
9月15日スペイン領フィリピン諸島(小琉球)に服属要求
10月14日島津氏を介し琉球へ唐入への軍役要求
1592年12月関白辞職し、秀次に譲る。太政大臣如元
文禄元年1592年4月12日56歳朝鮮出兵開始(文禄の役)
7月21日スペイン領フィリピン諸島(小琉球)に約を違えた朝鮮を伐ったことを告げ服属要求
人掃令制定。聚楽第行幸
文禄2年1593年8月57歳本拠を伏見城に移す。秀頼が誕生。
11月5日高山国へ約を違えた朝鮮を伐ち明も和を求めているとして服属入貢を要求
文禄4年1595年7月59歳秀次の関白並びに左大臣職を剥奪、高野山に追放し、自刃を命ず。聚楽第取り壊し
慶長元年1596年60歳サン=フェリペ号事件
慶長2年1597年2月61歳再度の朝鮮出兵開始(慶長の役)
7月27日スペイン領フィリピン諸島(小琉球)に日本は神国でキリスト教を禁止したことを告ぐ
慶長3年1598年62歳太政大臣辞職
8月18日伏見城で薨去。
大正4年1915年11月10日贈正一位[117][118]


人物
出身・家系

秀吉の父・弥右衛門は百姓だったというが、百姓 = 農民とするのは後代の用例であり、弥右衛門の主たる生業は織田家の足軽だったとする説がある。太田道灌北条早雲の軍制に重用された足軽は急速に全国へ広まっていた。ただし、小和田哲男は、秀吉は元々苗字持ちでなく、木下家利の婿養子の名目で木下祐久と改名した杉原定利の娘おねと結婚したことで「木下藤吉郎秀吉」を名乗るようになったという説を紹介している[119][注釈 42]。つまりそれ以前は苗字を名乗る地盤すら持たない階層だった可能性が指摘されている[注釈 43]

フロイス日本史』では「若い頃は山で薪を刈り、それを売って生計を立てていた」、『日本教会史』には、秀吉は「木こり」出身と書かれている。また小説家の八切止夫は、秀吉は「端柴売り」出身で、わざとそのことを示す羽柴(=端柴)に改姓し、自分が本来低い身分なのだとアピールすることによって周囲からの嫉妬を避けようとしたのだと推測している。小説家の井沢元彦は「当時の西洋人からは端柴売りが木こりに見えたのだろう」と両者を整合する説をとっている[注釈 44]

小牧・長久手の戦いの際には、徳川家康の重臣榊原康政が、「羽柴秀吉は野人の子、もともと馬前の走卒に過ぎず。しかるに、信長公の寵遇を受けて将師にあげられると、その大恩を忘却して、子の信孝公を、その生母や娘と共に虐殺し、今また信雄公に兵を向ける。その大逆無道、目視する能わず、我が主君源家康は、信長公との旧交を思い、信義を重んじて信雄公を助けんとして決起せり。」と秀吉の出自にからめて批判する檄文を発したという[121]

秀吉は他の大名と同様に側室を置いていたが[注釈 45]、正室であるねねとの間にも、側室との間にも子供が生まれず、実子の数は生涯を通じても非常に少なかった。秀吉との間に子供ができなかった側室達には、前夫との間に既に子供がいた者、秀吉と離縁あるいは死別し再婚してから子供ができた者が幾人かいる。そのため秀頼は秀吉の子ではなく、淀殿が大野治長など他の者と通じて成した子だとする説がある。これについては、秀頼だけでなく鶴松の時点でそうした噂があった[122]

秀吉は子宝に恵まれなかったが、実は長浜城主時代に1男1女を授かっていたという説がある。男子は南殿と呼ばれた女性の間に生まれた子で、幼名は石松丸、後に秀勝といったらしい。長浜で毎年4月(昔は10月)に行われる曳山祭は、男子が生まれたことに喜んだ秀吉から祝いの砂金を贈られた町民が、山車を作り長浜八幡宮の祭礼に曳き回したことが始まりと伝えられている。石松丸秀勝は夭折したが、その後秀吉は次々と二人の養子に秀勝の名を与えている(於次秀勝小吉秀勝)。長浜にある妙法寺には、伝羽柴秀勝像という子の肖像画や秀勝の墓といわれる石碑、位牌が残っている。女子の方は名前その他の詳細は一切不明だが、長浜市内にある舎那院所蔵の弥陀三尊の懸仏の裏に「江州北郡 羽柴筑前守殿 天正九年 御れう人 甲戌歳 奉寄進御宝前 息災延命 八月五日 如意御満足虚 八幡宮」という銘記があり、これは秀吉が天正2年(1574年)に生まれた実娘のために寄進したものだと伝わっている[123]。ただし今日舎那院では、これが秀吉の母・大政所のために寄進されたものであると説明している。しかし『多聞院日記』によれば、大政所は文禄元年(1592年)に76歳で死去しているので年代に齟齬が生じる(「御れう人」とは麗人のことであり、76歳の老人にまで解釈が及ぶものかどうか疑問であり、秀吉に女児が生まれたと考える方が自然と思われる)。
名称

婚姻により妻おねの姓・木下氏を名乗り、後に羽柴氏に改める[124]。諸系図に源氏平氏を称したように書かれているが、近衛家猶子となって藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓されて本姓とした。下賤・貧困層出身と少年期での父亡き子を隠していない[125]朝鮮国王宛のへの侵攻や、台湾フィリピンへの服属と入貢要求で、朱印状で日輪による受胎での「日輪の子」を名乗り、侵攻・支配要求への根拠とした[126]大村由己関白任官記に見られる秀吉は母方の祖父を「萩の中納言」とする公家の血筋であり、また「大政所が宮仕えをした後に生まれた」という表現は、明言はされていないが天皇の落胤をうかがわせるものであるが、事実とは考えられていない(出自参照)。

しばしば誤って羽柴から豊臣に改姓したといわれるが、羽柴は苗字、豊臣は姓(氏姓本姓)であり、身分が高くなりすぎたために名乗る機会が無くなっただけで、苗字は死ぬまで羽柴だったと考えられる[127]


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