豊臣秀吉
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太田牛一の『太閤様軍記の内』や『天正記』に見られる秀次の辻斬り乱行[94]、ジャン・クラッセ[注釈 33]の『日本西教史』に見られる「自ら罪人の首を撥ね、これを娯楽にした」[95]や妊婦の腹を裂いて中の子を見て楽しんだ等の悪行[92][注釈 34]や同様の『モンタヌス日本誌』[注釈 35][96]といった複数の記述が残っている。渡辺世祐は、秀吉の愛情が秀頼に移った上に、秀次は暴戻(ぼうれい)にして関白としてあるまじき行動が多かったがゆえに身を滅ぼしたとしている[97]小和田哲男は、秀次の暴虐を強調することは秀吉の一族誅殺を正当化するという側面もあり[注釈 36]、多くの逸話は創作か誇張であるとして殺生関白の史実性を否定し[87]宮本義己も疑問視したうえで、宮本は秀次失脚の原因として、後陽成天皇の病の際に、その主治医をしていた曲直瀬玄朔を自宅によびよせた一件が、関白の地位の乱用を問われる越権行為と判断され失脚、切腹につながったのではないかと指摘している[98][99]谷口克広は秀次の非行そのものは否定しないながらも、天道思想による因果応報の考えによってそれが針小棒大に語られている可能性を指摘し、『太閤記』で罪状のように扱われていることには懐疑的である[100]
慶長伏見地震の発生慶長伏見地震で被災した秀吉のもとに、加藤清正がいち早く駆けつけたとする逸話を描いた浮世絵(月岡芳年筆)。ただし地震発生時に清正は京都や伏見におらず、後世の作り話とされる。

文禄5年7月13日(1596年9月5日)に慶長伏見地震が発生し、京都・伏見全域に大きな被害をもたらした。この地震で秀吉の造立した方広寺大仏(京の大仏)が損壊した。この大仏は松永久秀の焼き討ちにより焼損した東大寺大仏に代わる大仏として、天正14年(1586年)に秀吉により発願され、文禄4年(1595年)に方広寺大仏及び大仏殿は完成をみた。大仏は開眼供養を待つのみとなっていたが、慶長伏見地震であっけなく損壊してしまった[101][102]。真偽不明ではあるが、秀吉は大仏が損壊したことに大変憤り、大仏の眉間に矢を放ったとする逸話がよく知られている(後述#宗教政策も参照)。同地震では伏見城も被害を受け、権力の象徴とするはずであった両建造物の損壊は、豊臣氏にとって痛手となった。なお同地震で方広寺大仏殿も倒壊したと紹介されることもあるが、それは誤りで、大仏殿の被害は軽微なものに留まり損壊を免れた[103]
サン=フェリペ号事件と二十六聖人処刑詳細は「サン=フェリペ号事件」および「日本二十六聖人」を参照

文禄5年(1596年)10月に土佐国にスペイン船が漂着し、サン=フェリペ号事件が起きる。奉行・増田長盛らは船員たちに「スペイン人たちは海賊であり、ペルーメキシコ(ノビスパニア)、フィリピンを武力制圧したように日本でもそれを行うため、測量に来たに違いない。このことは都にいる三名のポルトガル人ほか数名に聞いた」という秀吉の書状を告げた[104]。同年12月8日に秀吉は再び禁教令を公布した。

慶長2年(1597年)、秀吉は朝鮮半島への再出兵と同時期に、イエズス会の後に来日したフランシスコ会(アルカンタラ派)の活発な宣教活動が禁教令に対して挑発的であると考え、京都奉行の石田三成に命じて、京都と大坂に住むフランシスコ会員とキリスト教徒全員を捕縛し処刑を命じた。三成はパウロ三木を含むイエズス会関係者を除外しようとしたが、果たせなかった。2月5日、日本人20名、スペイン人4名、メキシコ人、ポルトガル人各1名の26人が処刑された。
慶長の役詳細は「文禄・慶長の役#慶長の役」を参照

文禄5年(1596年)、明との間の講和交渉が決裂し、秀吉は作戦目標を「全羅道を悉く成敗し、忠清道京畿道にもなるべく侵攻すること、その達成後は拠点となる城郭を建設し在番の城主を定め、その他の諸将は帰国させる」として再出兵の号令を発した[105]

慶長2年(1597年)、小早川秀秋を元帥として14万人の軍を朝鮮へ再度出兵する。漆川梁海戦で朝鮮水軍を壊滅させると進撃を開始し、2か月で慶尚道・全羅道・忠清道を制圧。京畿道に進出後、日本軍は作戦目標通り南岸に撤収し文禄の役の際に築かれた既存の城郭の外縁部に新たに城塞(倭城)を築いて城郭群を補強した。このうち蔚山城は完成前に明・朝鮮軍の攻撃を受けたが、日本軍が明・朝鮮軍を大破する(第一次蔚山城の戦い)。城郭群が完成し防衛体制を整えると、6万4千余の将兵を在番として拠点となる城郭群に残し防備を固めさせる一方、7万余の将兵を本土に帰還させ慶長の役の作戦目標は完了した[106]。その後、第二次蔚山城の戦い泗川の戦い順天城の戦いにおいても日本軍が防衛に成功した。

秀吉は慶長4年(1599年)にも再出兵による大規模な攻勢を計画しており、それに向けて倭城に兵糧や玉薬などを諸将に備蓄するように命じていたが[107]、計画実施前に秀吉が死去したため実施されることはなかった。秀吉の死後、五大老により、朝鮮半島在番の日本軍に帰国命令が発令された。
最期喜多川歌麿作の、醍醐の花見を題材にした浮世絵「太閤五妻洛東遊観之図」。

秀吉は秀次の邸宅となっていた京の聚楽第を謀反人の邸宅として徹底的に破却したが、慶長2年(1597年)に豊臣氏の新たな京(洛中)の屋敷として京都新城の造立を命じた。京都新城は御所近くに設けられ、秀吉は完成した新城を参内の折に数度訪れたが、いずれも滞在は短期で、京都新城に秀吉が移住することはなかった。幼少の秀頼が住んだとの説もあるが、これも「移徙」とあるだけで、実際に住んだことは確認できない(翌年8月18日に秀吉が伏見城で亡くなると、家督を継いだ秀頼は京都新城には住まず、秀吉の遺命により大坂城に移った)。

慶長3年(1598年)3月15日、醍醐寺諸堂の再建を命じ、庭園を造営。各地から700本の桜を集めて境内に植えさせて秀頼や奥方たちと一日だけの花見を楽しんだ(醍醐の花見)。5月から秀吉は病に伏せるようになり日を追う毎にその病状は悪化していった。5月15日には『太閤様被成御煩候内に被為仰置候覚』という名で、徳川家康・前田利家・前田利長・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元ら五大老及びその嫡男らと五奉行のうちの前田玄以・長束正家に宛てた十一箇条からなる遺言書を出し、これを受けた彼らは起請文を書きそれに血判を付けて返答した。秀吉は他に、自身を八幡神として神格化することや、遺体を焼かずに埋葬することなどを遺言した[108]

自分の死が近いことを悟った秀吉は7月4日に居城である伏見城に徳川家康ら諸大名を呼び寄せて、家康に対して秀頼の後見人になるようにと依頼した。8月5日、秀吉は五大老宛てに二度目の遺言書を記す。8月18日、秀吉はその生涯を終えた。享年62。死因については諸説あり定かではない(後述#死因も参照)。なお同時代人には「秀吉公は、善光寺如来を方広寺大仏殿へ遷座したことによる祟りで落命された」と認識されていた[109][110]。秀吉の造立した方広寺大仏(京の大仏)は慶長伏見地震で損壊してしまったので、秀吉は夢のお告げと称して、由緒ある信濃善光寺如来を、大仏に代わる新たな方広寺の本尊として迎え、損壊した大仏を取り壊しの上で大仏殿に安置した。しかし善光寺如来の遷座から程なく秀吉は病に臥せるようになったので、善光寺如来の祟りだと噂されていた[111]


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