ただし、秀吉の正妻高台院の兄弟たちおよびその子孫たちは、羽柴から木下に名字を改めたものの、豊臣の氏はそのまま名乗り続けている。『寛政重修諸家譜』には、豊臣を本姓とする大名家として、備中足守25,000石の木下家と豊後日出25,000石の木下家の2軒、同じく旗本として、足守木下家の分家1軒と日出木下家の分家2軒を掲載する。このうち木下利次は、高台院の養子となり、豊臣氏(羽柴家)の祭祀を継承することが許されている[3]。
また、朝廷の地下官人のうち、かつての滝口武者を再興した「滝口」36軒があったが、そのうちの1軒である木下家は本姓を豊臣氏と称していた。この家は、明和5年(1768年)に木下秀峯が滝口に補せられたのを創始とする。秀峯は当初「しげみね」と名乗っていたが、安永7年(1778年)に「ひでみね」と改めた。あきらかに「秀吉」を意識した諱であるが、秀峯の前歴・系譜関係などは不明である。秀峯?秀時?秀敬?秀邦?秀幹?秀有と相承して幕末に至る。衛府の志(さかん)から尉(じょう)を経て諸国の国司(おおよそ介まで)となるのを極官とした。極位は正六位下であった。さらに、「滝口豊臣秀時(秀峯の子)」の子に佐野秀孝(極位極官は文政8年(1826年)12月19日時点で正六位下・雅楽少允)が、秀孝の子には佐野秀富(極位極官は弘化3年(1846年)4月18日時点で正六位下・雅楽少允)がいた。
加えて、『地下家伝』によれば、山本正綱は内蔵寮官人・豊臣信易と長井宗信女との間に生まれた子であり、氏は豊臣・大江であったとされる。正綱は、延宝7年(1679年)9月20日に生まれ、寛保3年(1744年)に辞官する際には従六位下・修理大属であった。先祖については、「家記依焼失先祖年序不相知候」とあり、家記が火災によって燃えたために不明であったという。正綱の子孫は利房?正興?正芳?正安と続き、正安は垣内氏と改姓した上で正武?匡雄?匡幸?匡久?匡盛と続いた(参考 : 地下家の一覧)。
『寛政重修諸家譜』によれば、伏屋氏も江戸時代に豊臣氏を名乗っている[4]。
その後、明治時代に「氏」制度が廃止されるまで、新たな氏は創設されることはなかった。華族の宗族制では、足守・日出の両木下家が「豊臣朝臣・肥後守俊定裔」として第75類に分類されている。豊臣朝臣は皇別・神別・外別のいずれのカテゴリーにも含まれておらず、同様の扱いを受けたのは琉球国王であった尚家だけであった。 すでに平安時代には解体し形骸化していた氏であるが、藤氏長者・源氏長者などの役職、氏爵などの慣習が儀礼的に存続していた。秀吉も、関白に就任するにあたり、それに付随するものとして藤氏長者を兼ねている。豊臣氏もこれを引き継ぐかたちで氏長者を設置している。「豊氏長者」(ほうしのちょうじゃ)である。天正19年(1591年)12月、秀吉が養子羽柴秀次に関白を譲った際に、関白職任命にともなって作成された各種官位叙任文書が『足守木下家文書
豊臣氏の組織
なお、豊氏長者は、同時に藤氏長者の地位と権限をも掌握していた。秀吉は関白に就任する際、近衛家に対して、将来的には前久の子息信輔に関白職を返す約束をしたというが、秀吉はこれを反故にしただけでなく、それまで摂家のものであった藤氏長者までも奪ったのである。そのことを誇示するように[要出典]、秀吉は豊臣に改姓したあとの天正16年(1588年)1月に、藤原氏の氏神春日社の最高責任者の一人である正預職の任命権を行使している。また、同天正16年(1588年)12月には、藤原氏の始祖藤原鎌足を祀る多武峯寺に、弟羽柴秀長の居城のある郡山への遷宮を命じ、実行に移している。このとき用いられた命令文書は、本来は藤原氏の大学別曹である勧学院の別当(弁官が務めることから弁別当といい、また「南曹弁」ともいう)が氏長者の意志を奉じて発給する奉書である長者宣(藤氏長者宣)であり、時の南曹弁は、藤原北家勧修寺流に属する右中弁中御門資胤であった。秀次の関白就任にあたっても、上述の豊氏長者に補する宣旨のほか、藤氏長者を意味する「氏長者」に補す旨の宣旨が別途作成されている。 村川浩平「羽柴氏下賜と豊臣姓下賜」[5]の「豊臣姓一覧表」、同「天正・文禄・慶長期、武家叙任と豊臣姓下賜」[6]より被下賜者を年代順に並べた。なお、豊臣氏の氏長者及びそれに準じる立場の豊臣秀吉・豊臣吉子(高台院)・豊臣秀頼の3名は村川作成の表には含まれていない。
豊臣姓を称した者のリスト(暫定)