豊田章男
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語学習得を目的としていたが[3]、バブソン大学(マサチューセッツ州)のビジネススクールに入学し、1982年に経営学修士(MBA)を取得した。なお、この頃はゴルフに夢中であった。
金融業界から自動車業界に

MBAを取得したのち、アメリカ合衆国の投資銀行(A.G.ベッカー(英語版)。1984年にメリルリンチが買収)にて勤務した[4][5]。しかし自分が豊田家の人間であるという周囲の目から悩みが増していき、上司の「同じ苦労をするなら、トヨタのため苦労したらどうなんだ?」という言葉に豊田の姓を受け入れることを決意。1984年に投資銀行を辞し、トヨタ自動車に入社した。トヨタ自動車への転職を決意した章男に対し、父である章一郎は「(章男を)部下に持ちたいと思う人間は今のトヨタにはいない」[6]と戒めたうえで、特別扱いはしないと言い渡した。そのため、章男はトヨタ自動車に対して履歴書を提出し、章一郎は社員としての入社を認めた[6]

入社後は、生産管理や国内営業などを担当した。係長から平社員への降格人事も経験したものの[6]販売部門への「カイゼン」活動の横展開などを通じ、販売部門の改革を主導した[3]1998年には、自動車関連の情報を総合的に提供するウェブサイトGAZOO.com」を立ち上げた[7]。その後、アメリカ合衆国カリフォルニア州にて、ゼネラルモーターズとの合弁企業「NUMMI」の副社長を務めた。
経営者として2011年8月18日レクサス・GSのローンチイベントにてレクサス・インターナショナル上級副社長マーク・テンプリン(左)と

2000年に同社取締役、2002年常務取締役、2003年専務取締役、2005年に副社長に就任した。役員に就任以降は「GAZOO」や「G-BOOK」など情報事業、中国事業[8][9]第一汽車広州汽車との合弁会社で社長や副社長[10][11][12][13]世界戦略として推進した「トヨタIMVプロジェクト」統括、調達部門、などで力量を発揮し、国内営業の担当役員に就任以降は自ら各地の自動車ディーラー飛び込み営業して各店で頭を下げて回るなど積極的に営業[14]している。

2009年1月20日にトヨタ自動車は、豊田章男の社長昇格を含めた人事を発表[15]し、記者会見で章男は「自動車業界が二十一世紀も必要とされるのか、今が瀬戸際」[16]と危機感を表明し、人事案は6月の株主総会で承認される予定[15]と発表した。人事は6月23日の株主総会で承認され、1982年の工販合併で現在のトヨタ自動車が誕生して以降で最も若く52歳で章男が社長に就任[17]した。創業家である豊田家系の社長就任は、1995年8月に退任した豊田達郎以来14年ぶり[17][注釈 1]である。

社長就任時の新取締役人事では、かつての上司トヨタ生産方式に詳しい林南八技監や、子会社に出されていたトヨタアドミニスタ(現:トヨタモビリティ東京)社長の前川眞基トヨタ輸送社長の伊原保守などを登用し、渡辺捷昭前社長の側近を排除する異例の人事を断行した[18]

章男が社長に就任した当時は、2008年にリーマンショックで71年ぶりの連結営業赤字転落、2010年に世界規模でリコール問題(トヨタバッシング)、2010年はトヨタのマスターテストドライバーの成瀬弘が事故死、2011年は3月に東日本大震災と7月にタイ洪水被害による操業一時停止、歴史的な円高などでトヨタは危機的状況であった。そのため章男は「原点回帰」に立ち、渡辺前社長までの急激な拡大路線を止めて緊急VA(価値分析)により原材料費削減や、トヨタF1チームやNUMMI撤退により経営を縮小。また経営幹部の人数を減らして意志決定を迅速化し、世界各地の消費者需要を詳細に把握して地域事情に適合した車種を投入することを決めた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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