豊中市
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年表[8]
近世まで

684年白鳳12年) - 天武天皇が桜塚の祇園神祠(現在の原田神社)で勅祭を執り行い、神宝・神鏡ならびに獅子頭を奉納する。桜塚の地は皇族や後の武家に重用されることとなる。桜塚には古墳群が数多存在し、古代より豪族との関係も深い。

712年和銅5年) - 太安万侶が撰上した『古事記』中巻に「日子八井命(ひこやいのみこと)は茨田(まむたのむらじ)・手島連(てしまのむらじ)の祖である」と手島連(豊島郡の氏族)の名称が出てくる。

769年神護景雲3年) 5月 - 称徳天皇が豊島の人15人に姓(カバネ)を授けた(『続日本紀』)。

815年弘仁6年) - 万多親王らが撰進した『新撰姓氏録』には、当地方の氏族として椋橋部連・天神服部連・豊島連などの名が記されている。

荘園時代には、椋橋荘、原田荘、服部荘などができる。

院政期には豊島郡の多くは藤原氏の私領になり、藤原氏の氏神春日神社とも密接に結ばれた。

1183年寿永2年) - 治承・寿永の乱のとき、藤氏長者近衛基通から春日神社へ寄進され、豊島郡は垂水西牧と呼ばれ、荘園の崩壊後も永く続いた。

1221年承久3年) 5月 - 長江荘と椋橋荘の地頭白拍子亀菊の領地を横領し、これがきっかけとなって後鳥羽上皇鎌倉幕府の間に溝ができ、承久の乱が起こった(『吾妻鏡』・『承久記』(『承久軍物語』))。

1336年建武3年)2月 - 豊島河原(瀬川宿(現:箕面市)周辺とされる)において後醍醐天皇方の新田義貞ら と足利尊氏方が戦う(豊島河原合戦、『太平記』・『梅松論』)。

1461年寛正2年)6月 - 久米井用水をめぐって、原田郷と川辺郡田能村との間に相論が行われ、原田郷の勝訴となった。

1467年 - 1477年 - 応仁の乱には、豊中市域も戦乱のちまたになった。椋橋城などはその代表的なもので、東西両軍が秘術をつくした記録が数多く見られる。

戦国時代には刀根山城・勝部城・原田城・西市場城・今在家城・穂積堡など、国人領主土豪が相次いで居城を築いたが徐々に姿を消す。

1573年天正元年) - 織田信長からその才を認められて荒木村重摂津一国を与えられる。

1578年(天正6年)11月 - 荒木村重が織田信長に謀叛をおこす(有岡城の戦い)。信長は刀根山城に拠る。

1579年(天正7年)6月 - 信長に攻められ、伊丹城落城。村重は転々と居城を逃げ回る。

1626年寛永3年) - 上新田・下新田の開発が行われる。

江戸時代には外様大名青木氏(1万石)が麻田陣屋を築き、市内の一部を統治した(麻田藩)。このほか、浜には飯野藩の陣屋(浜村陣屋)、桜井谷には岡部藩陣屋、上新田は淀藩領、そのほかに一橋徳川家領、代官支配地、公家領、旗本領、天領などが入り組んだ。これは江戸幕府が「入組支配」を行い、統一のないものにするための政策で、このため明治維新後も府県、郡村の離合集散が重ねられた。

1701年元禄14年)7月 - 岡町の4料理屋が多くの遊女をおいたので、年寄が差し止めた。

1830年文政13年)8月 - 阿波から始まった御蔭踊りの狂乱が、河内大和、の村から村へと伝わった。

1867年慶応3年)12月 - 豊中の各地に社寺のお礼が降った(御札降り)。

明治以降

1889年(明治22年)- 町村制施行により豊島郡豊中村が発足。「豊中」という呼称の始まりとされる。

1910年(明治43年)2月 - 箕面有馬電気軌道(現:阪急電鉄宝塚線)の開通。これを機に大阪衛星都市として急激に発展する。

1912年(大正元年) - 庄内村の庄本、三屋を除く各大字にあった神社を一か所に集めて庄内神社が建立される。

1913年大正2年)5月1日 - 豊中グラウンド(豊中球場)が開設される。

1915年(大正4年)8月18日 - 第1回全国中等学校優勝野球大会(現:全国高等学校野球選手権大会)が豊中グラウンド(豊中球場)で行われる。
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