豊中市(大阪国際空港)の気候
月1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月年
最高気温記録 °C (°F)18.8
(65.8)22.2
(72)25.6
(78.1)30.8
(87.4)33.2
(91.8)37.9
(100.2)39.5
(103.1)39.9
(103.8)37.3
(99.1)33.9
(93)27.5
(81.5)23.7
(74.7)39.9
(103.8)
平均最高気温 °C (°F)9.6
(49.3)10.4
(50.7)14.1
(57.4)19.9
(67.8)25.0
(77)28.1
(82.6)31.8
(89.2)33.8
(92.8)29.6
(85.3)23.8
(74.8)17.8
(64)12.1
(53.8)21.3
(70.3)
日平均気温 °C (°F)5.1
(41.2)5.7
(42.3)9.1
(48.4)14.5
(58.1)19.5
(67.1)23.3
(73.9)27.4
(81.3)28.7
(83.7)24.7
(76.5)18.7
(65.7)12.7
(54.9)7.4
(45.3)16.4
(61.5)
平均最低気温 °C (°F)0.7
(33.3)1.0
(33.8)4.0
(39.2)9.1
(48.4)14.3
(57.7)19.3
(66.7)23.8
(74.8)24.8
(76.6)20.7
(69.3)14.2
(57.6)7.8
(46)2.8
(37)11.9
(53.4)
最低気温記録 °C (°F)?5.8
(21.6)?6.3
(20.7)?3.7
(25.3)?0.4
(31.3)4.6
(40.3)9.9
(49.8)15.7
(60.3)17.3
(63.1)10.8
(51.4)3.9
(39)0.0
(32)?4.5
(23.9)?6.3
(20.7)
降水量 mm (inch)44.4
(1.748)59.3
(2.335)97.1
(3.823)98.2
(3.866)137.4
(5.409)180.1
(7.091)182.6
(7.189)122.8
(4.835)159.2
(6.268)127.1
(5.004)68.5
(2.697)49.6
(1.953)1,326.3
(52.217)
平均降水日数 (?1.0mm)5.46.29.28.89.711.110.67.29.98.55.86.098.4
出典:気象庁 (極値:1977年-現在[5]、平均値:1991年-2020年[6])
豊島(てしま)の名が文献にみられるようになったのは和銅5年(712年)太安万侶が撰上した『古事記』中巻からで、その後、神護景雲3年(769年)称徳天皇が豊島の人15人に姓(カバネ)を賜わった記録が『続日本紀』にみられる。 1889年(明治22年)の町村制施行により豊島郡豊中村が発足。「豊中」の地名が生まれたのはこのときで[7]、豊島郡の中央にあることから名付けたと伝えられている。これらの「豊
地名詳細は「豊中市の地名」を参照
歴史豊中市中心部周辺の空中写真。1985年撮影の12枚を合成作成。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。
市町村名の由来
年表[8]
近世まで
684年(白鳳12年) - 天武天皇が桜塚の祇園神祠(現在の原田神社)で勅祭を執り行い、神宝・神鏡ならびに獅子頭を奉納する。桜塚の地は皇族や後の武家に重用されることとなる。桜塚には古墳群が数多存在し、古代より豪族との関係も深い。
712年(和銅5年) - 太安万侶が撰上した『古事記』中巻に「日子八井命(ひこやいのみこと)は茨田連(まむたのむらじ)・手島連(てしまのむらじ)の祖である」と手島連(豊島郡の氏族)の名称が出てくる。
769年(神護景雲3年) 5月 - 称徳天皇が豊島の人15人に姓(カバネ)を授けた(『続日本紀』)。
815年(弘仁6年) - 万多親王らが撰進した『新撰姓氏録』には、当地方の氏族として椋橋部連・天神・服部連・豊島連などの名が記されている。
荘園時代には、椋橋荘、原田荘、服部荘などができる。
院政期には豊島郡の多くは藤原氏の私領になり、藤原氏の氏神春日神社とも密接に結ばれた。
1183年(寿永2年) - 治承・寿永の乱のとき、藤氏長者の近衛基通から春日神社へ寄進され、豊島郡は垂水西牧と呼ばれ、荘園の崩壊後も永く続いた。
1221年(承久3年) 5月 - 長江荘と椋橋荘の地頭が白拍子亀菊の領地を横領し、これがきっかけとなって後鳥羽上皇と鎌倉幕府の間に溝ができ、承久の乱が起こった(『吾妻鏡』・『承久記』(『承久軍物語』))。
1336年(建武3年)2月 - 豊島河原(瀬川宿(現:箕面市)周辺とされる)において後醍醐天皇方の新田義貞ら と足利尊氏方が戦う(豊島河原合戦、『太平記』・『梅松論』)。
1461年(寛正2年)6月 - 久米井用水をめぐって、原田郷と川辺郡田能村との間に相論が行われ、原田郷の勝訴となった。