帰国した谷村は、アマチュア・ロック・バンド「フーリッシュ・ブラザーズ・フット」のボーカル堀内孝雄をアリスに勧誘。堀内は「ポート・ジュビリー」で、既に谷村とは知り合いだった。 1971年12月25日、谷村、堀内の2名で「アリス」結成。桑名正博の実家の蔵で練習を重ねる。 1972年3月5日、シングル『走っておいで恋人よ』でデビュー。同年5月5日、矢沢が正式に合流し、現在のアリスとなった。2ギター&ボーカル、1パーカッションという特異な編成とブルース色の強い演奏については、リッチー・ヘブンスの影響を少なからず受けているとのことである。 デビュー当初はヒット曲もなく、鳴かず飛ばずであった。1000人収容のホールに20人しか入らず舞台の上でお客と車座になって歌ったこともあるほど[11]。所属事務所ヤングジャパンは、何とか打開策を見出そうと、ソウルミュージックの帝王ジェームス・ブラウンを初来日させるが、当時の日本ではマイナーなアーティストだったこともあって、来日公演は不入り。逆の意味で“伝説のライブ”となり、ヤングジャパンは、莫大な借金を背負った。 この際、2700人を収容できる大阪のフェスティバルホールに観客が約200人しか集まらなかった。ライブを盛り上げるため観客席でスタッフらと共に歓声を上げていた谷村は、ジェームス・ブラウンのライブでは恒例のマントショーの最中、舞台袖にいた舞台監督に「もうだめだ、やりたくない」と両手でIサインを出しているジェームス・ブラウンの姿が見えたという。 借金返済のためグアムへのクルージング・ツアーを企画するが、これもまた成功には至らず借金をこじらせる結果となる。挙句は帰国途中に谷村が当事者となったコレラ騒動までもが起こった(後にコレラでないと判明するまで船底に一時隔離されていた)。谷村の著書での回想によれば当時人気絶頂だったガロが同行したがスケジュールの都合で途中で帰国。困った谷村達は懸命にアリスで盛り上げようとした。 アリスは、地道なライブ活動(1974年には年間303ステージという記録が残っている)と1975年の『今はもうだれも』のヒットを契機に、『冬の稲妻』、『涙の誓い』、『ジョニーの子守唄』、『チャンピオン』、『狂った果実』等のヒット曲を連発する。 アリスの活動と並行して、ソロ活動も開始。コンサート活動はなかった(アダモとのジョイント・コンサートを除く)ものの、1975年のアルバム『蜩(ひぐらし)』を皮切りに、ソロ名義でのアルバムやシングル制作、他の歌手への楽曲提供を精力的に行う。 1977年、ブティック店員であった妻・孝子と結婚。妻はのちに谷村の個人事務所社長となり、マネジメント業務全般を任されることになる[12]。 1978年、山口百恵に提供した山口24枚目シングル『いい日旅立ち』は、チャート最高位3位、100万枚の売上を記録し、山口のシングル歴代全作品の中では、首位の『横須賀ストーリー』に次ぐ2番目のセールス数を記録した[13]。同曲は2006年、文化庁と日本PTA全国協議会選定の『日本の歌百選』にも選出された[14]。 だが借金返済のため、がむしゃらに活動していたことが祟り、同年過労で緊急入院。メニエール病を発症する。3ヶ月の療養ののち復帰し、8月末には『アリス武道館ライヴ '78?栄光への脱出? 』を成功させた[12]。同公演は日本人アーティストとして初めての3日間公演として、一時代を築いた。 アリスとは異なる壮大なスケール[14]を背負った歌謡曲は、1979年のファーストソロシングル『陽はまた昇る』を経て、1980年の2ndシングル『昴 -すばる-』で一定の完成をみる。『昴』は、累計売上67.6万枚・オリコン週間ランキング最高2位を記録し、ソロ最大のヒット曲となった[15]。1981年にはシングル『群青』が東宝映画『連合艦隊』の主題歌となる。 同年8月23日、北京・工人体育館にて日中共同コンサート『ハンド・イン・ハンド北京』開催。中国におけるロック・ポップス系コンサートとしては、前年10月23日・24日に工人文化宮で開催された『第一回中日友好音楽祭』に出演したゴダイゴに次ぐものだが、単独公演としてはアリスが初めてであった。
アリス結成?活動期
グループ・ソロ兼業時代