1967年には初の訳書となる『あしながおじさん』(ジーン・ウェブスター)を出版。翻訳の分野では『スイミー』(レオ・レオニ)、『ピーナッツ』、『マザー・グースのうた』など2007年現在までにおよそ50種類の著作を手がけている。
1968年に母校である都立豊多摩高等学校へ"あなた"を創作。以降、豊多摩高校では卒業式で卒業生がこの詩を朗読するのが伝統となっている。
2007年現在までに出版した詩集・詩選集は80冊以上に及ぶ。子どもが読んで楽しめるようなもの(『わらべうた』『ことばあそびうた』など)から、実験的なもの(『定義』『コカコーラ・レッスン』など)まで幅広い作風を特徴としている。谷川の詩は英語、フランス語、ドイツ語、スロバキア語、デンマーク語、中国語、モンゴル語などに訳されており、世界中に読者を持っている。
2014年には息子と孫との共著「どこかの森のアリス」を出版。
2017年、個人のファンにより札幌市に谷川公認の「俊カフェ」がオープン。『詩人なんて呼ばれて』(尾崎真理子著/新潮社)年表に記載されたほか、「谷川俊太郎展」(於:東京オペラシティアートギャラリー、2018年)の年表最後にも記載される。
エピソード
詩人を生業とすることを自負し[4]、日本ビジュアル著作権協会の会員として、著作権擁護に熱心に取り組んでいる。2007年には希学園とSAPIXに対して、受験教材に勝手に作品を掲載され著作権を侵害されたと主張して、なだいなだ他25名とともに東京地裁に出版差止め訴訟を起こした[5]。一方で、「詩というのは書いた以上他人のもの」と言い、自分の詩を起点に詩を連ねていくプロジェクトも喜んでおり、詩を本来は金銭とは馴染まずしかし必要最低限の著作権によって詩人としてお金を稼いでいきたいと考えているようである[6]。
これまで3度結婚しており、岸田衿子は最初の、大久保知子(元新劇女優)は2人目の、佐野洋子は3人目の妻であった。また、大久保との間に生まれた息子の谷川賢作は音楽家であり、父子によるコンサートを数多く行っている。
1日1食を実践し、夜はセブンイレブンの玄米ご飯のレトルトパックを中心とした食事をする毎日。詩はノート型のマックで、居間や書斎で書く[7]。
『ピーナッツ』の翻訳作業について、谷川は一度引退宣言をする[8]などあまり好きではなかったものの、紆余曲折を経て1967年から2020年までの長期にわたり全作品の訳を手掛けた。谷川は約50年もの間、翻訳に携わってきたことについて「嫌だって言いながら、途中から他の人の訳を見ると、何か腹立たしくなったり、俺もやらなきゃなんて思ったり。最後は自分のものであってほしい、なんて取られそうな気がして。だから、個人全集みたいになるのが申し訳ないし、途中で嫌になったりしているのに、いいのかなって思いながらーー(全作翻訳のきっかけとなった)今度の全集がうれしいんですよ、僕は」と語っている。また谷川にとって、登場キャラクターは身内のような存在になったという。原作者のチャールズ・M・シュルツについては手塚治虫の様な漫画家をイメージしていたため、対面時の印象について「全然、漫画家のイメージじゃないんですよ。僕の彼に対する第一印象は哲学者だった」という[9]。
略年譜
1931年(昭和6年) - 12月15日、東京信濃町の慶応病院で帝王切開により生まれ、杉並の東田町で育つ[10]。
1936年(昭和11年) - 高円寺の聖心学園に入園[10]。
1938年(昭和13年) - 杉並第二小学校に入学[10]。
1944年(昭和19年) - 東京都立豊多摩中学校に入学[10]。
1945年(昭和20年) - 7月、京都府久世郡淀町にある母方の祖父の元に母親と疎開する[10]。9月、京都府立桃山中学校に転学[10]。
1946年(昭和21年) - 3月、杉並の自宅に戻り、豊多摩中学校に復学[10]。
1948年(昭和23年) - 北川幸比古らの影響でガリ版刷りの詩誌に詩を発表する[10]。
1950年(昭和25年) - 高校を卒業[10]。父の友人である三好達治の紹介により雑誌『文学界』に詩が掲載される[10]。
1952年(昭和27年) - 6月、第1詩集『二十億光年の孤独』刊行[10]。
1953年(昭和28年) - 7月、詩誌『櫂』の同人に参加する[10]。『六十二のソネット』刊行[10]。
作品に対する評価
思想家、吉本隆明は1982年、渋谷・西武劇場の講演で「交合」に関して「これは谷川さんの作品の中でぼくならば一番いいというふうに理解します。」と述べた[11]。
谷川は、詩人の辻征夫との対談の中で、「無意識から出てきている」「書きたいと思っても書けない」自身の作品として、「公園又は宿命の幻」「交合」「芝生」を挙げたことがある[12]。「公園又は宿命の幻」は『谷川俊太郎詩集』(現代詩文庫、1969)に、「交合」は『コカコーラ・レッスン』(思潮社、1980)に、「芝生」は『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』(青土社、1975)にそれぞれ収められている。
文藝評論家、丸谷才一は、谷川の『日々の地図』(集英社、1982)収録の「新宿哀歌」の書評で、書き出しを引用した上で「こんなところを読むと、谷川俊太郎は戦後日本の北原白秋なのだと改めて気がつく。白秋の『東京景物詩』のせいではなく、あふれるほどの才能があつて、仕事ぶりがきれいで、口あたりのいい感じが、じつによく似ているのだ。(中略)しかし、白秋では民謡がいちばんいいと三好達治は語つたさうだが、谷川は民謡を書いてゐない。地方出身者で造酒屋の息子である白秋が身につけてゐたやうな、生活者としての共同体感覚は、東京の哲学者の息子にはないのだろう。彼はその意味で、戦後詩人であるよりもむしろ都市化の時代の詩人なのである。彼には田村隆一が持つてゐるやうな形での(東京下町の風俗としての)伝統的な生活様式はない。大岡信が持つてゐるやうな、紀貫之や藤原定家の言葉と通ひあふものもない。」と書いている[13]。
受賞歴
1962年 - 「月火水木金土日のうた」で第4回日本レコード大賞作詞賞
1975年 - 『マザー・グースのうた』で日本翻訳文化賞
1983年 - 『日々の地図』で読売文学賞
1985年 - 『よしなしうた』で現代詩花椿賞
1988年 - 『はだか 谷川俊太郎詩集』で野間児童文芸賞、『いちねんせい』で小学館文学賞
1992年 - 『女に』で丸山豊記念現代詩賞
1993年 - 『世間知ラズ』で萩原朔太郎賞