谷川俊太郎
1945年(昭和20年) - 7月、京都府久世郡淀町にある母方の祖父の元に母親と疎開する[10]。9月、京都府立桃山中学校に転学[10]。
1946年(昭和21年) - 3月、杉並の自宅に戻り、豊多摩中学校に復学[10]。
1948年(昭和23年) - 北川幸比古らの影響でガリ版刷りの詩誌に詩を発表する[10]。
1950年(昭和25年) - 高校を卒業[10]。父の友人である三好達治の紹介により雑誌『文学界』に詩が掲載される[10]。
1952年(昭和27年) - 6月、第1詩集『二十億光年の孤独』刊行[10]。
1953年(昭和28年) - 7月、詩誌『櫂』の同人に参加する[10]。『六十二のソネット』刊行[10]。
作品に対する評価
思想家、吉本隆明は1982年、渋谷・西武劇場の講演で「交合」に関して「これは谷川さんの作品の中でぼくならば一番いいというふうに理解します。」と述べた[11]。
谷川は、詩人の辻征夫との対談の中で、「無意識から出てきている」「書きたいと思っても書けない」自身の作品として、「公園又は宿命の幻」「交合」「芝生」を挙げたことがある[12]。「公園又は宿命の幻」は『谷川俊太郎詩集』(現代詩文庫、1969)に、「交合」は『コカコーラ・レッスン』(思潮社、1980)に、「芝生」は『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』(青土社、1975)にそれぞれ収められている。
文藝評論家、丸谷才一は、谷川の『日々の地図』(集英社、1982)収録の「新宿哀歌」の書評で、書き出しを引用した上で「こんなところを読むと、谷川俊太郎は戦後日本の北原白秋なのだと改めて気がつく。白秋の『東京景物詩』のせいではなく、あふれるほどの才能があつて、仕事ぶりがきれいで、口あたりのいい感じが、じつによく似ているのだ。(中略)しかし、白秋では民謡がいちばんいいと三好達治は語つたさうだが、谷川は民謡を書いてゐない。地方出身者で造酒屋の息子である白秋が身につけてゐたやうな、生活者としての共同体感覚は、東京の哲学者の息子にはないのだろう。彼はその意味で、戦後詩人であるよりもむしろ都市化の時代の詩人なのである。彼には田村隆一が持つてゐるやうな形での(東京下町の風俗としての)伝統的な生活様式はない。大岡信が持つてゐるやうな、紀貫之や藤原定家の言葉と通ひあふものもない。」と書いている[13]。
受賞歴
1962年 - 「月火水木金土日のうた」で第4回日本レコード大賞作詞賞
1975年 - 『マザー・グースのうた』で日本翻訳文化賞
1983年 - 『日々の地図』で読売文学賞
1985年 - 『よしなしうた』で現代詩花椿賞
1988年 - 『はだか 谷川俊太郎詩集』で野間児童文芸賞、『いちねんせい』で小学館文学賞
1992年 - 『女に』で丸山豊記念現代詩賞
1993年 - 『世間知ラズ』で萩原朔太郎賞
1996年 - 朝日賞[14]
2005年 - 日本文化デザイン大賞
2006年 - 『シャガールと木の葉』で毎日芸術賞
2008年 - 『私』で詩歌文学館賞
2010年 - 『トロムソコラージュ』で鮎川信夫賞
2011年 - 中国の詩歌の民間最高賞「中坤国際詩歌賞」を受賞[15]。
2016年 - 『詩に就いて』で三好達治賞
2019年 - 国際交流基金賞
2022年 - 「ストルガ詩の夕べ」で金冠賞受賞[16]
2023年 - 第75回NHK放送文化賞[17]
1982年には芸術選奨文部大臣賞に選ばれたが辞退し、国家からの褒章は受けていない。
著書・作品
詩集
『二十億光年の孤独』創元社 1952
『六十二のソネット』(創元社、1953年)のち講談社+α文庫
『愛について』東京創元社 1955
『絵本』的場書房 1956
『谷川俊太郎詩集』東京創元社 ポエム・ライブラリィ 1958
『あなたに』東京創元社 1960
『21』思潮社 1962
『落首九十九』朝日新聞社 1964
『谷川俊太郎詩集』思潮社 1965
『旅』香月泰男画(求龍堂、1968年)
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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