1937年(昭和12年)10月29日施行を昭和天皇に裁可された、帷幄上奏勅令軍事機密『軍令陸甲第34号』を根拠とした、軍政上の奉勅命令である中支那方面軍司令部の動員命令が、陸軍大臣杉山元大将によって動員担任官へ伝宣され、同司令部の動員がなされた。動員担任官は上海派遣軍司令官(当時松井石根大将)であった。11月2日動員完結が同軍司令官から、杉山陸軍大臣と参謀総長載仁親王大将へ報告された[4]
11月20日大本営設置。12月1日大本営参謀総長載仁親王大将から中支那方面軍の編成と南京攻略の奉勅命令が、松井石根司令官へ伝宣された[5]。12月7日、国家元首、中華民国総統・?介石は南京から脱出した。9日、松井石根軍司令官は、南京城内の数ケ所にへ降伏を勧告するビラを投下し、南京防衛司令官・唐生智へ降伏を勧告したが反応はなかった。10日、松井軍司令官は全軍へ南京城への総攻撃を命令し、13日これを占領した。
南京軍事法廷
逮捕南京軍事法廷へ送られる谷
太平洋戦争後軍事法廷がアジア各地に開廷された[6]。GHQは1945年9月9日戦犯容疑者逮捕命令の発令を開始し(日本の戦争犯罪)、翌年2月谷寿夫元第6師団長はGHQによって逮捕され、南京軍事法廷へ移送された。
以下、○印は谷寿夫逮捕時(昭和21年2月)の生存者で、×印は死去していた者。
中支那方面軍司令官 松井石根大将○ 参謀長 塚田攻少将× 参謀副長 武藤章大佐○
上海派遣軍司令官 朝香宮鳩彦王中将○ 参謀長 飯沼守少将○ 参謀副長 上村利道大佐○
京都第16師団長 中島今朝吾中将×(砲兵科) 参謀長 中沢三夫大佐○
(以下略)
第10軍司令官 柳川平助中将×(騎兵科) 参謀長 田辺盛武少将○
熊本第6師団長 谷寿夫中将○ 参謀長 下野一霍砲兵大佐○[7]
宇都宮第114師団長 末松茂治中将○ 参謀長 磯田三郎砲兵大佐○
久留米第18師団長 牛島貞雄中将○(以下略)
弁明南京軍事法廷での谷
・谷寿夫の弁明[8]
(一)、(谷の)部隊は入城後、中華門一帯に駐屯し、十二月二十一日にすべて蕪湖に移動した。当時中華門一帯は激戦によって住民はすべて避難しており、虐殺の対象となるような者はいなかった。そのうえ被害者はみな、日本軍の部隊番号を指摘できていない。ゆえに虐殺事件は中島・末松およびその他の部隊が責任を負っているのである。犯罪行為調査表にも「中島(中島今朝吾 )」の字句が多く載せられているのは、被告と関係がないことを示している。
( 二 ) (谷の)所属部隊は軍規厳正でいまだ一人も殺害していないことを保証できる」。(中略)「被告所属の参謀長下野一霍・旅団長坂井徳太郎・柳川部隊参謀長田辺盛武・高級参謀藤本鉄熊などの召喚訊問を要請したい。そうすれば明瞭となろう。
( 三 ) 本事件の証拠はすべて偽造であり、罪を論ずる根拠となすには不十分である」
下野一霍砲兵大佐は、谷の訴追(逮捕起訴)時も生存していたが、下野一霍参謀長の証人出廷は、南京軍事法廷によって却下された。
なお、上記(一)は、指揮官クラスで、公に南京虐殺の存在を認めた唯一の証言だとされる。
判決刑場に立つ谷
裁判長石美瑜による1947年3月10日判決では次のように宣告された[9]。
「第一点について言えば、犯罪行為を共同で実行した者は、共同意志の範囲内で各自が犯罪行為の一部を分担し、互いに他人の行為を利用しもってその犯罪目的を達成しようとしたのであるから、発生したすべての結果に対して共同で責任を負わなければならない 。被告は南京を共同で攻撃した高級将校であった。南京陥落後、中島・牛島・末松などの部隊と合流して各地区に分かれて侵入、大虐殺および強姦略奪、放火などの暴行をおこない、捕らわれた中国の軍人・民間人で殺害された者、三十万余りの多きに達した。当時南京に滞在していた外国人は、国際団体の名義で二十六年十二月十四日から二十一日まで、すなわち被告の部隊の南京駐留期間に前後一二回、日本軍当局と日本大使館にそれぞれ厳重な抗議をおこなった。