谷亮子
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階級は48kg級。組み手は右組み。得意技は背負投福岡工業大学附属城東高等学校帝京大学文学部卒業、日本体育大学大学院博士前期課程修了。元トヨタ自動車所属[3]日本オリンピック委員会選手強化キャンペーン・シンボルアスリート制度を適用[3]

世界選手権7連覇・全日本体重別11連覇を含む14度の優勝・福岡国際11連覇を含む12度の優勝、オリンピックでは2個の金メダル・2個の銀メダル・1個の銅メダルと出場した5大会全てでメダルを獲得するなど圧倒的な戦績を誇り、女子柔道、柔道の普及に大きな貢献をした[3]
国会議員として

2010年(平成22年)3月31日付でトヨタ自動車のスポンサー契約(同社所属の従業員選手扱い)が終了し、選手としての所属を個人事務所の「オフィス・リョウコ」に変更する。2010年(平成22年)5月10日第22回参議院議員通常選挙民主党比例区公認候補として出馬表明を示した。柔道については当時は現役続行を宣言し、2012年のロンドンオリンピックで金メダルを目指す意欲を示していた[注 1]が、断念した(後述)。

同年7月、民主党の比例区から立候補し、民主党公認候補の中で得票数第2位となる352,594票を獲得し、初当選を果たした。小沢ガールズ報道される。

本人は前述の通り、現役選手と国会議員の活動を両立する意向を持っていたが、同年9月17日、全日本柔道連盟の強化委員会が強化指定ランクを格下げ(最上位の「ナショナル」から「シニア」に1段階降格)したことにより国際大会への出場が大幅に制限されることとなった[4]

その後も柔道競技者として練習は続けていたものの、2010年10月15日、国会議員としてまずは国政でのスポーツ振興に全力を注ぐことを優先し、2012年のロンドン五輪への代表選考試合への不参加を表明し、「柔道家引退」と報じられた[5][6]。なお、2008年北京オリンピックで銅メダルに終わって以降、柔道の公式試合には一度も出場していない。

2012年7月2日に小沢一郎の民主党離党に同調して離党届を提出[7][8][9][10]。翌3日に受理され[11][12]、10日に離党した[13]。その後2012年7月11日、小沢が率いる国民の生活が第一の結党に参加した[14]。同年11月28日、嘉田由紀子滋賀県知事が代表を務める「日本未来の党」(前日27日に結成)に参加した[15]。12月1日、党幹事(遊説担当)に就任[16]。日本未来の党の解党後は、小沢一郎の率いる生活の党に所属。

2013年6月には全日本柔道連盟の理事に田辺陽子北田典子とともに女性として初めて起用されることになった。その際に「(女子選手の)窓口的な役割が求められていると思う。柔道を通じて夢や希望を持てる体制を作りたい」「選手と所属(団体)、全柔連などの組織が孤立しないように、意思の疎通を深めたい」「日本発祥の柔道には素晴らしい伝統と文化がある。それを広めながら改革していきたい」と決意を語った[17][18][19]

2013年8月2日、生活の党副代表兼参議院幹事長に就任した[20]

2015年6月には公務多忙を理由に全柔連の理事から外れた[21]

2016年6月、第24回参議院議員通常選挙に出馬しない意向を代表の小沢一郎に伝えた[22][23]
不祥事

2015年の
収支報告書に554万円の人件費が計上され、そのうち494万円が政治活動の実態のない父・田村勝美に支払われ、収支報告書の虚偽記載として政治資金規正法違反の疑惑が発覚し、本人も疑惑を否定しなかった[24]

2016年の参院選不出馬後

2018年1月14日に女子四段から女子六段へ昇段したことが、講道館から発表された。九州柔道協会からの推薦により、講道館から昇段を認められた。本人によれば、政治活動に一区切りをつけた2年ほど前からの稽古などの準備を進めていたとしている[1](但し柔道界には復帰していない)。

2022年6月から、日本プロ野球OBクラブの理事を務めている。
競技歴
生い立ち

城浜小学校2年生の時に4歳年上の兄に影響されて東福岡柔道教室で柔道を始めた。それからわずか数か月後には櫛田神社の奉納試合で5人抜きを演じたが、その際には男の子を投げ飛ばして、けがを負わせたことがある[25][26]。この当時は柔道以外にピアノ書道乗馬も習っていたが、ある時ピアノの教師に「ピアノには五輪はなかと」と言われたことがきっかけで柔道に専念するようになった[27]

小学校4年の時には九州少年柔道大会の団体戦で優勝して最優秀選手に選ばれた[25]。小学校5年の時には全国少年柔道大会の団体戦に東福岡柔道教室の先鋒で出場して準決勝で敗れたものの、3位入賞を果たした[28]。小学校6年の時には団体戦の全日本少年少女武道錬成大会で優勝した[25]。なお、小学校の卒業文集では「私は柔道が好きな女三四郎でーす」と自己紹介していた。また、レベッカジョージ・マイケルのファンでもあった[25]
中学時代

城香中学2年の時に体重別九州予選に出場すると、準決勝で柳川高校3年の衛藤裕美子と対戦した。ポイントでリードしながら終了20秒前に送襟絞をきめられて参ったをしてしまい、本選への出場はならなかった。この際に道場の師範だった稲田明に、「試合を放棄するようなことはするな。あと20秒辛抱すれば勝ったのに、今までやってきたことが台なしではないか。やり直しだ」と叱られて顔を叩かれた。道場では度々竹刀で叩かれていたものの、顔を叩かれたのはこの時が初めてだったという[25][29]。なおこの後、全日本女子代表チームの強化合宿に参加したものの、体が小さく白帯だったため、最初は強化選手の誰からも相手にされなかった。そのうち、48kg級トップレベルの1人である埼玉大学1年の鈴木若葉が声を掛けると、組むや否や豪快な背負投で投げ飛ばして、周囲の強化選手やコーチをざわつかせた[25]。またこの当時、同じ福岡県の篠栗町道場に出稽古に赴いた際には男子中学生を次から次へと投げ飛ばして、道場破りの様相を呈することとなった。投げられた1人である中学3年の男子生徒は、自分より30kg近く軽い小柄な田村に投げられた衝撃から柔道をやめてしまった[25]


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