護国卿
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しかしそれにも限界があり1656年9月17日第二議会を召集、議会の提案に基づき1657年1月に軍政監が廃止されると社会安定を重視し軍事政権から王政への回帰へ考えを変えて、5月25日に統治章典に代わる『謙虚な請願と勧告』制定を受け入れた。クロムウェルは王ではなかったがそれに準ずる権力(後継者指名権など)を手に入れ、かつて共和国が廃止した上院枢密院の復活と下院の権力強化もなされ、護国卿の権力は強化され体制と社会の安定が図られた[1][9]

こうして護国卿の地位は、前国王を処刑してまで廃止したはずの旧君主のそれと実質的に同じものとなり、君主の専権事項だったナイト爵の叙任なども従前そのままに護国卿が行うようになっていった。護国卿の国家元首としての正式称号もBy the Grace of God and Republic Lord Protector of England, Scotland and Ireland(神と共和国の恩寵による、イングランド、スコットランド、およびアイルランドの護国卿)

という旧態依然としたものになった。

だが政局は安定せず、議会に入った共和主義勢力が政局を乱したため1658年2月4日にクロムウェルは混乱を避けるべく議会を解散した。それから7ヶ月後の9月3日にクロムウェルが病死すると、護国卿の地位は子のリチャード・クロムウェルによって引き継がれた[1][10]

リチャードは父の晩年に屋台骨が揺らぎ始めた共和制の引き締めを図るため、軍との対立もあって1659年1月27日第三議会を召集したが、軍の圧力で4月22日に解散せざるを得なくなった。5月7日に軍がランプ議会を召集し復活、政権存続を諦めたリチャードは就任8か月に当たる18日後の25日に護国卿を辞任するに至った。終身任期の護国卿が就任から1年も経たずに辞任に追い込まれたことで、イングランド共和国はここに事実上崩壊した。この後は元オリバーの部下だった者たちと議会との間で勢力争いのいざこざが繰り返されて政局は空転、これをうけて翌1660年5月29日には故チャールズ1世の嫡男が亡命先から帰国、ロンドンチャールズ2世として即位し、イングランドは王政復古を実現している[1][11]

クロムウェル父子の後、「護国卿」の称号はこの両名と不可分なものとなった。それはまた、不名誉な共和制を連想させて余りある語でもあった。これ以後イギリスでこの「護国卿」の称号が使用されることは二度となかった。
脚注^ a b c d e f g h i j 松村、P606。
^ 青山、P417 - P418、川北、P120、ロイル、P159、P162 - P163。
^ 青山、P432 - P433、川北、P126 - P127、ロイル、P215 - P218、P223 - P225。
^ ロイル、P246 - P252。
^ 青山、P440 - P441、川北、P132 - P133。
^ 川北、P152 - P154。
^ 今井、P196、川北、P200、清水、P211。
^ 今井、P196 - P198、清水、P211 - P217。
^ 今井、P201 - P208、P211 - P212、川北、P202、清水、P220 - P236。
^ 今井、P213 - P216、清水、P236 - P239、P258 - P260。
^ 今井、P217 - P218、清水、P263 - P265。

参考文献

今井宏『クロムウェルとピューリタン革命』清水書院、1984年。

青山吉信編『世界歴史大系 イギリス史1 -先史?中世-』山川出版社、1991年。

川北稔編『新版世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年。

松村赳・富田虎男編『英米史辞典』研究社、2000年。

清水雅夫『王冠のないイギリス王 オリバー・クロムウェル―ピューリタン革命史』リーベル出版、2007年。

トレヴァー・ロイル著、陶山昇平訳『薔薇戦争新史』彩流社、2014年。

関連項目

イギリス君主一覧

保護者 (称号)

摂政


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