議長に類似する役職。会議の代表というニュアンスは薄く、その時々の会合の議事運営について責任を負う暫定的な役職という色合いが濃い場合が多い。特に学会発表の場合の一枠(セッション)について、司会・進行を担う役割があり[13]、英語の(session) chairに相当する。ただし、「会議」という名前でも、1回の会合ではなく一定期間続く合議体において、とりまとめ訳を座長と称することがある。例えば皇室典範に関する有識者会議においては座長、座長代理が置かれた。
座長は、演芸関係の興行を行う団体である「座」の長、統括者の意味もある(基本的に主演者が担う。興行に限らず、テレビドラマやテレビアニメ等の主演者も座長と呼ばれる)。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 1925年3月24日の帝国議会衆議院本会議で、議長権限は絶大であるので不偏不党のために正副議長はその在職中に限り党籍を離脱することを望むという旨の決議が行われ、それ以降はおおむね正副議長は党籍を離脱していた。(衆議院先例集 平成15年版 1-6-6 (65) pp.75-76)
^ 当時の衆議院議長であった中村梅吉(自由民主党所属)が、国会の混乱収拾について「野党をごまかしておいた」と発言したことにより辞任に追い込まれたことが契機となった(詳細は中村の項を参照の事)。
^ 灘尾弘吉は1979年2月1日の衆議院議長就任に際して自民党を離党、同年9月7日の解散で議長の身分を失った後に復党し総選挙に臨み当選、10月30日に議長に再任された翌日に再び離党している。(衆議院先例集 平成15年版 1-6-6 (65) p.77)
^ ただし山崎は帝国議会時代最後の議長である。戦前の政治では議長の地位は今よりも低く、貴衆両院議長の宮中席次は第12位で首相や元老はもちろん陸海軍大将や枢密顧問官よりも下であった。近衛篤麿は五摂家筆頭の家柄もあり33歳で貴族院議長に就任している。
^ 大野伴睦(1953年3月14日衆議院議長退任・1954年1月14日北海道開発庁長官就任・1954年7月27日北海道開発庁長官退任・1957年7月自民党副総裁就任・1960年自民党総裁選出馬・1964年5月29日死去により自民党副総裁退任)、松永東(1955年1月24日衆議院議長退任・1957年7月10日文部大臣就任・1958年6月12日文部大臣退任)、益谷秀次(1958年4月25日衆議院議長退任・1959年1月自民党総務会長就任・1959年6月総務会長退任・1959年6月18日副総理就任・1960年7月自民党幹事長就任・1961年7月自民党幹事長退任)、中村梅吉(1973年5月29日衆議院議長退任・1973年11月25日法務大臣就任・1974年11月11日法務大臣退任)、船田中(1972年11月13日衆議院議長退任・1977年11月自民党副総裁就任・1978年12月自民党副総裁退任)
^ 帝国議会衆議院における星亨の例。なお、帝国議会の議長は天皇が解任することもできた。
^ 政治資金規正法上の代表者は中央委員会幹部会委員長としており、党首会談等には通常委員長が出席する。
出典^ 浅野一郎・河野久著 『新・国会事典―用語による国会法解説』 有斐閣、2003年、85頁
^ 衆議院先例集 平成15年版 51
^ 平成10年度版参議院先例録 60
^ 松澤浩一著 『議会法』 ぎょうせい、1987年、265頁
^ a b 松澤浩一著 『議会法』 ぎょうせい、1987年、272頁
^ a b 松澤浩一著 『議会法』 ぎょうせい、1987年、273頁
^ 松澤浩一著 『議会法』 ぎょうせい、1987年、278頁
^ 中野文庫 ‐ 宮中席次
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