警視庁
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警視庁は本部名として道府県警察とは異なる名称が法律で定められており(警察法47条1項)、また政令により本部以外の警察署も警視庁の呼称を冠することになっている(警察法施行令5条1号)[4]。一般的には都警察全体を警視庁と呼称することが多い[注 9]。本部の所在地付近の旧称「外桜田門」から、通称あるいは隠語として「桜田門」と呼ばれることもある。

戦後、日本の占領統治を担った連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の公安課は、内務省警保局を頂点とする日本警察の一元的な体制に否定的であり、警察制度改革の一環として首都警察である警視庁の特権的地位を剥奪するために、1947年(昭和22年)9月30日付覚書で警視庁 (内務省)自治体警察にすべきと指示した。1948年(昭和23年)3月7日、警視庁 (内務省)は解体され、国家地方警察である国家地方警察東京都本部と、東京23区を管轄する自治体警察である警視庁 (旧警察法)八王子市警察に代表される市町村自治体警察が発足した。斎藤昇国家地方警察本部長官によれば、警視庁 (旧警察法)の名称変更を諮ったところ、従来通りとの意見が多かったため、「警視庁」のままにしたという。この際、GHQは警視庁 (旧警察法)に「警視庁」の名称を認めたが、「警視庁の名称については東京のみが違う名称を使うことは好ましくなく、他の都市も同じ名称にすることに反対しないという条件で東京に警視庁の名称を残すことを許した経緯があるから(GHQ)公安課としては警視庁という名を各都市(七大都市)で使うことを希望する」という方針であった。そのため、GHQの強い後押しで大阪市警視庁が設立されている。しかしその後、GHQの占領統治が終結に向かう中、日本政府は数度に及ぶ警察法の改正を行い、住民投票により自治警を廃止できるようにし、その結果、自治警は402まで激減していた。最終的には1954年の警察法全部改正により、GHQ肝いりの自治体警察は消滅し、大都市の自治警は1年後に全て廃止されることになった[5]1954年(昭和29年)7月1日に大阪府警察が発足したのに伴い、大阪市警視庁は大阪市警察に改称され、1年後の1955年(昭和30年)7月1日に大阪府警察に吸収されて消滅した[5]。以降、警視庁の名称は、新警察法により国家地方警察東京都本部に、警視庁(旧警察法)と市町村自治体警察を吸収する形で発足した、現在の警視庁のみが使用することを許されている。
110番通報の接続先

発信元接続先
市外局番が03の地域の固定電話千代田区の本部指令センター(本部庁舎)
市外局番が044の地域の固定電話神奈川県警察
市外局番が048の地域の固定電話埼玉県警察
市外局番03ではない多摩地域の固定電話立川市の多摩指令センター(多摩総合庁舎)
伊豆諸島小笠原群島の固定電話本部指令センター[注 10]
携帯電話電波を受信した基地局の固定電話と同じ接続先

沿革1931年(昭和6年)から1977年(昭和52年)まで使用された建て替え前の旧本部庁舎。1980年(昭和55年)からは同じ場所に現本部庁舎が竣工。

以下の略年表は、主に『警視庁百年の歩み』の「警視庁略年表」[6]と警視庁公式ホームページの「警視庁創立150年記念サイト[7]」を参考にしている。
前史

1868年(
明治元年)4月16日:東征大総督府が江戸市中取締り強化のために、薩摩藩ほか11藩から藩兵を拠出させる。藩兵は後に府兵に改称[8]

1871年(明治4年)10月23日:府兵が廃止され、東京府が薩摩藩出身者を中心に邏卒3,000人による取締組を編成[8]

警視庁の設置

1874年(明治7年)

1月15日:
川路利良の建議書が採用され、首都警保のために東京府下の警察事務一切を管理する、内務省管轄の東京警視庁を設置[9](明治七年一月十五日太政官達第六号)。この後に機構の変革があるものの、警視庁の歴史(警視庁創立周年)はこの日を起点としている。

なお、1906年(明治39年)に行われた警視庁官制の改正まで、国事犯については全て警視庁の長に執行権限が与えられており、その権限は全国に及んでいた。その為、西南戦争等の騒乱に際し、警視庁の警察官が日本各地に派遣され、騒乱の鎮圧または警戒警備にあたった。


8月19日:警察手帳を交付。


1877年(明治10年)

1月11日:日本各地で頻発していた士族の反乱に対処する為、政府は全国の警察を一元化し警察力を内務省の直轄下に置くことを決定し、東京警視庁を廃止し内務省に統合[1]

1月27日:東京警視本署を設置[1]


1881年(明治14年)1月14日:「警視庁」を再設置。太政官布告1号及び2号により、大警視を警視総監に改め、新たに警視副総監を置く。この年より警察署と巡査屯所を設置[1]

1903年(明治36年)9月21日:騎馬巡査を配置(騎馬隊の発足)。

1913年(大正2年)2月10日:護憲派の民衆が都下の交番を襲撃。焼失52ヶ所、破壊24ヶ所[10]

1918年(大正7年)1月1日:オートバイ(通称「赤バイ」)による交通指導取締りを開始。

1921年(大正10年)6月2日:刑事部を設置。

1923年(大正12年)10月20日:警察官の拳銃携帯が許可される。

1931年(昭和6年)5月29日:関東大震災後の「霞が関官庁街集中計画」の先陣を切って、麹町区外桜田町1番地の陸軍教導団砲兵屯営の跡地(現本部庁舎所在地と同じ)に地下1階・地上5階建ての旧桜田門庁舎(本節掲載の写真の建物)が竣工。その後、1977年(昭和52年)1月まで使用される。

1933年(昭和8年)10月1日:警視庁に特別警備隊(現在の機動隊に相当)を設置。「昭和の新撰組」と呼ばれた。

1936年(昭和11年)8月1日:従来の「赤バイ」が「白バイ」となる。

1948年(昭和23年)3月7日:警察法(旧)施行により、それまでの内務省警保局(→内事局第一局、現在の警察庁)及び警視庁と府県警察部からなる一本化されていた警察組織は再編成され、これに伴い、東京都区部(東京23区)のみを管轄とする自治体警察としての警視庁 (旧警察法)となる。東京都内ではこの他に、三多摩地区に国家地方警察東京都本部と市町村自治体警察を設置[11]

1954年(昭和29年)7月1日 :警察法(新)の施行により、国家地方警察と自治体警察が廃止となり、警察庁都道府県警察に再編成され、再び警察組織が一本化される。これにより、国家地方警察東京都本部(15署)と警視庁 (旧警察法)、八王子市警察などの4市警察が廃止・統合され、再び東京都全域を管轄とした現在の警視庁に再編成される[12]。新警察法案の審議は国会乱闘事件となり、警視庁の警察官が院内出動する事態となった。

1957年(昭和32年)4月1日:警邏交通部を交通部に、警備第一部を警備部に、警備第二部を公安部に、予備隊を機動隊にそれぞれ改称。警らに関する業務を警備部に移管。

1967年(昭和42年)

4月1日:住居表示実施に伴い、本部の住所表記が「東京都千代田区霞が関二丁目1番1号」に変更。

7月21日:警備部から警ら部が独立。


1976年(昭和51年): 本部庁舎の建て替えに伴い、6月から順次、物産館東京消防庁旧庁舎等を仮庁舎として使用(1980年まで)。翌年の1977年6月8日から現本部庁舎の建築に着工。

1980年(昭和55年)6月17日:地下4階・地上18階建ての警視庁現本部庁舎が竣工。

2007年(平成19年) パトカーのデザインを52年振りに「POLICE」のロゴ入りのものに変更。東京マラソン2007より使用され、その後、地域課や交通機動隊などのパトカーを順次新デザインに変更している。


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